時を経てもなお語り継がれる、歴史に残る女性。彼女たちはどのような思いを抱き、恋をして、どんな人生を送ったのでしょうか。今回は過去から語り継がれている女性の生きざまを紐解いて、彼女たちの足跡を辿ってみました。
恋に生きた女性たちの足跡を辿る旅に、一緒に出てみませんか。
悲恋の尼寺 京都の祇王寺
京都 祇王寺
京都奥嵯峨にある「祇王寺」は悲恋の寺として知られています。寺の名前についた祇王とは、平家物語にゆかりの白拍子の祇王(ぎおう)を指します。祇王が母と妹と共に庵を結んだことから、祇王寺と呼ばれるようになりました。
祇王寺について
祇王寺は竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られております。祇王寺は昔の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝わっています。山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになりました。
祇王寺について|ギャラリー祇王寺より引用
祇王寺
住所:〒616-8435 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
TEL:075-861-3574
URL: http://www.giouji.or.jp/
拝観料:大人300円・小人(小中高)100円
拝観時間:午前9時~午後5時(受付終了午後4時30分)
祇王という女性
京都 祇王寺
平清盛が天下の権力を握り、我が世の春を謳歌していた頃の話です。都で評判の祇王・祇女という白拍子の姉妹がいました。祇王は特に芸に優れ、美しさが際立っていたので、平清盛の目に止まったのです。平清盛は祇王を寵愛し、妹の祇女、母刀自(とじ)とも立派な館に住まわせ、不自由のない裕福な暮らしを与えました。
3年ほど続いた豊かな生活は、年若い白拍子に心を移した清盛の心変わりにより終わりを告げます。寵愛を奪われ屈辱を受けた祇王は、障子に歌を一首書き残しました。館を追われた祇王が、母と妹と共に出家したのはわずか21歳の時です。
萌え出るも 枯るゝもおなじ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき
春に勢い良く芽を出す草も、盛りを過ぎて枯れていく草も、いずれも同じ道端の雑草。いつかは飽きられ捨てられるのは、避けられないことなのでしょう。
(意訳 青山沙羅)
白拍子とは、現代でいえばアイドル
(C)beibaoke / Shutterstock.com 白拍子イメージ
祇王をはじめ、この時代に流行った白拍子とはどんな身分なのでしょう。
白拍子とは
白拍子とは平安時代後期に流行した歌舞の一つで当世風の今様(いまよう)。それを歌い舞うことを職業とし、物腰柔らかい舞いをみせる女性も白拍子と言うようになった。
白拍子とは、平安調から始まった舞妓のこと。流行りの流行歌を歌い踊る、当時のアイドル。衣装は立烏帽子、水干、単、紅長袴に太刀を携え、手に扇を持つ男装。源義経の寵愛を受けた静御前も白拍子でした。当時セレブの愛人は、白拍子が多かったようです。
参考
[日本の服装史|風俗博物館]
仏御前という女性
京都 祇王寺
祇王から清盛の寵愛を奪った仏御前は、どんな女性だったのでしょうか。仏御前は、加賀国(石川県)の出身の絶世の美少女。歌と舞に優れ、14才の時に京に上り白拍子となりました。そして、時の権力者・平清盛の前で今様(いまよう)を歌い舞踊ったことにより、清盛の寵愛は祇王から仏御前に移ったのです。仏御前はわずか16歳。清盛は50代半ばを越していました。恋に落ちたのは仏御前ではなく、清盛の方だったことは明らかでしょう。
仏御前は同じ白拍子(身分としては低い)でありながら、追い出す形になった祇王と自分を重ね合わせていたようです。祇王が「萌え出るも 枯るゝもおなじ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき」と歌に残したように、いつか自分にも同じことが起こることを悟っていました。清盛の館を後にし、祇王親娘のいる庵を訪れ、自らも髪を下ろして出家したのは17歳の時だったそうです。
しかし、たとえ同じ白拍子であろうと、清盛の寵愛を受けた者同士が尼寺で一生共に過ごしたのか筆者は疑問に感じました。祇王寺にある墓は、祇王親娘3人(祇王、祇女、刀自)のものです。
仏御前は、尼寺を出た
仏御前は数ヶ月後、祇王に別れを告げていました。向かった先は、故郷の加賀国(石川県)。祇王の元へ身を寄せた数ヶ月後、仏御前は身ごもっていることに気づいたからです。尼寺で子供を産むことは出来ないので、故郷を目指しました。ところが、子供はこの世に生を繋げず、仏御前も故郷で21歳の生涯を終えました。仏御前屋敷跡・仏御前墓は石川県小松市の指定文化財になっています。
参考
[仏御前の里|まるごと・こまつ・旅ナビ]
[仏御前屋敷跡・仏御前墓|公益社団法人石川県観光連盟]
ふたりの白拍子の運命を変えた平清盛とは
(C)TK Kurikawa / Shutterstock.com 平清盛像
祇王を追い出し、はたまた仏御前も出家させ、ふたりの女性の運命を変えた平清盛は、「平家物語」では女心が分からない酷い人間になっています。平清盛といえば、源氏と平家が争った「源平合戦」の平家のリーダーですね。白河天皇のご落胤とも囁かれ、異例な出世をしました。当時の天皇から権力を奪い、武士がはじめて政権を握ったのです。平清盛は微妙な関係を保っていた後白河法皇をついには幽閉し、院政を終了させました。「平家にあらずんば人にあらず」と、平家一門の栄耀栄華を極めたのです。
参考
[平清盛の生涯|京都市産業観光局観光MICE推進室]
[新・平家物語 完全版|著者: 吉川英治]
今様狂いの後白河天皇
清盛に幽閉された後白河天皇は、子供の頃から今様(いまよう 当時の流行歌)狂いで、生涯を通じて今様を愛しました。今様に傾倒する様子に「天皇の器には、ちょっと無理では」と思われた人物。喉が枯れるまで今様を歌い、踊ったといいます。現代だったら、本人は音楽プロデューサーにでもなりたかったところでしょう。館では今様の宴を行い、貴賤を問わず才能のある芸能者らを庇護したと言われます。
参考
[後白河院|今様白拍子研究所]
[【 意外と庶民感覚!?】後白河天皇が「流行歌」今様に注いだハンパない愛|歴人マガジン]
祇王と仏御前の正体とは
祇王と仏御前は、権力により運命に弄ばれた女性たちと語られます。でも、筆者はふたりの女性に少なからず違和感を抱きました。同じ男性の寵愛を受けた女性たちが、同じ尼寺で髪を下ろすこと。仏御前はその後すぐに故郷へ帰ったこと。清盛の子を身ごもった(子供は死産)ことは、故郷へ帰る理由付けであるかもしれず、事実であるかどうかは不明です。
栄耀栄華を誇った平家の天下も永遠には続きませんでした。後白河法皇の第三皇子が源氏に武装蜂起させ、打倒平家と平家政権に反旗を翻したのです。平清盛が熱病で亡くなった4年後、平家は壇ノ浦の源平合戦で敗れ、滅亡しました。
ここからは筆者の妄想です。ふたりの女性に関わった平清盛と、今様狂いの後白河天皇が生涯微妙な関係を保っていたと知った時、線が繋がった気がしました。今様フリークの後白河天皇は、今様を歌い踊る白拍子(アイドル)に精通していたはず。清盛好みの美しい白拍子である祇王と仏御前は、後白河天皇側から送られた女スパイかもしれません。清盛と過ごした期間は、祇王が3年間、仏御前は半年ほどと比較的短い期間です。そして捨てられた(およびいつか捨てられるであろう)という理由で髪を下ろしていますが、出家するというのは俗世や家柄と縁を切ること。打倒平家の動きを知る彼女たちが髪を下ろして、平家と縁を切り安全圏に入ったのかもしれません。平家一門が滅亡した中で、彼女たちは源氏に追われることなく一生を終えています。
風に吹き散らされる塵のように
京都 祇王寺
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
祇園精舎の鐘は、「諸行無常(この世のものは常に変化して、永久不変のものはない)」の音色を響かせる。
沙羅双樹の花の色(釈迦の入滅時、花が枯れ白い色に変化)のごとく、隆盛は色あせるもの。
我が世の春は長くは続かず、はかなく覚める春の夜の夢。
権力を持つ者もいつかは力を失い、風に吹き散らされた塵のように消え行く運命である。
(意訳 青山沙羅)
彼女たちの本性がどうであろうと、17歳や21歳の若さで、俗世と縁を切って一生を終えるのは哀れなことです。平家物語の有名な冒頭部分のように、儚い人生でした。親子ほど離れた平清盛に恋心を抱くとは思い難く、清盛の方が彼女たちの美貌と若さに惹かれたと考えられます。夜の長さを持て余したら、語り継がれた女性たちに思いを馳せて、いろいろ想像するのも悪くないと思いませんか。
筆者注:歴史的背景については参考サイトを基にしましたが、文献により史実が異なることがありますので、ご承知ください。