アメリカで保育器がはじめて使われた意外な場所
2003年7月7日 コニーアイランド Side show(見世物小屋) Photo by Hideyuki Tatebayashi Do not use images without permission.
アメリカで保育器がはじめて使われたのは、どこだと思いますか。
意外なことに、病院でも研究所でもなく、庶民のリゾート地「コニーアイランド」。ビーチや遊園地がある行楽地と、保育器に入った赤ちゃんは結びつきませんね。しかも赤ちゃんたちは見世物として展示されていたというのです。
【ニューヨーク旅学事典15】夏の幻想「コニーアイランド」
907グラム未満の小さな赤ちゃんは、25セントの入場料で展示されていた
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 1903年当時の保育器が展示された”The Incubator Babies(保育器に入った本物の赤ちゃん)”
出生体重が低い小さな赤ちゃんたちは、25セント(現在10ドル程度の価値)の入場料で、”The Incubator Babies(保育器に入った本物の赤ちゃん)”として展示されていました。かなりショッキングな史実です。
2パウンド(907グラム)未満の小さな赤ちゃんを展示していたのは、マーティン・クーニー(Martin Couney)という医師で、アメリカで初めて保育器を実用化しました。1903年当時の保育器は鋼鉄とガラス製で、湯沸かし器のお湯がパイプを通ってベッドを下から温め、小さな赤ちゃんは温められ安全に守られていました。
親からは治療費を一切受け取らなかった
出生時に医師から「この子は助からない」と見放された、2パウンド(907グラム)未満の小さな赤ちゃんたちをクーニー医師が引き取りました。保育器に入った赤ちゃんを展示することで、保育器で育てる経費を賄っていたのです。
クーニー医師の保育器は、1903年当時1台あたり1日約15ドル(現在の405ドル相当=51,700円。2022年5月19日換算)の経費がかかりましたが、25セント(現在の10ドル相当)の入場料ですべての費用を負担しました。クーニー医師は、保育器で治療を受ける赤ちゃんたちの親からは治療費を一切受け取らず、助けを求める小さな赤ちゃんは人種や社会階級に関係なく受け入れました。
40年間で8,000人の低出生体重児が引き取られ、6,500人が生き延びた
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 体重計測を受ける小さな赤ちゃん
2パウンド(907グラム)未満の小さな赤ちゃんが”The Incubator Babies(保育器に入った本物の赤ちゃん)”に収容され、5パウンド(約2,270グラム)以上に育つと、親元に帰されました。健康になった赤ちゃんは保育器から出て、親の腕に抱かれることができたのです。
1903〜1943年の40年間で8,000人の低出生体重児が引き取られ、6,500人が生き延びたと言われています。85%以上の高確率で、小さな生命が救済されました。
あらためて、保育器とは何か
早く生まれた赤ちゃん、小さく生まれた赤ちゃん、呼吸の助けが必要な赤ちゃん、心臓などに病気がある赤ちゃんが治療を受けたり、元気に大きく育つために必要な医療機器。保育器はママの子宮の代役で、体温・温度調節と感染予防が大きな役割です。
当時病院では保育器が導入されていなかった
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 1903年当時の保育器
1920年に双子として生まれたルシール・コンリン・ホーンは、体重がわずか2パウンド(907グラム)で、双子のもう一人の子は出生時に既に亡くなっていました。医師は、ルシールも脆弱すぎて生き延びられないだろうから、しばらく待って双子一緒に弔うように両親に言ったそうです。
現代医療とは事情が異なるにしても医師としてあるまじき発言で、父親は納得しませんでした。毛布で小さなルシールを包むと、コニーアイランドまでタクシーを飛ばし、クーニー医師を訪ねたそうです。クーニー医師の保育器で6カ月間過ごしたルシールは、成人して5人の子どもをもうけ、96歳の長寿をまっとうしました。
20世紀初頭アメリカの医師の中には「優生思想(優れた遺伝子を残し、弱者を排除する)」を持つ人もおり、低出生体重児を「遺伝的に劣っている」と見解する誤った風潮があったようです。そのため、標準より小さい赤ちゃんを助ける保育器の実用化が進まなかったのではないかと思われます。
低出生体重児は愛情を持って、清潔な環境で育てられた
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 入浴中の赤ちゃん
”The Incubator Babies(保育器に入った生きた赤ちゃん)”として展示された赤ちゃんは、どんな環境で育ったのでしょうか。心配に反して、クーニー医師の保育器施設は常に清潔に保たれていました。
小さな赤ちゃんの面倒を見る看護師は、パリッと糊が効いた白衣と帽子を被り、病院の看護師と変わるところがありませんでした。
お風呂に入れてもらった赤ちゃんは、リラックスして安心した表情ですね。見世物になった悲愴感や虐待などの心配はなく、大切に扱われていることが感じられます。
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY ミルクを飲む小さな赤ちゃん
クーニー医師は母乳推奨者で、赤ちゃんには母乳が与えられました。小さな赤ちゃんの世話をする乳母のために栄養がある食事を準備する料理人が雇われ、喫煙、飲酒をした乳母は直ちに解雇。赤ちゃんに対する安全性を第一に考え、病院以上の行き届いた環境でした。
また多くの病院の医師は、感染リスクを減らすために、赤ちゃんとの接触は最小限に抑えるべきだと信じていました。しかし、クーニー医師は、「赤ちゃんが育つには愛情を感じることが必要」と考え、抱きしめてキスするために保育器から時々赤ちゃんを出すように看護師に勧めたそうです。
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 清潔なおくるみを着せてもらう小さな赤ちゃん
小さな赤ちゃんの清潔なおくるみには「小さな命は神様からの贈り物」とでもいうようにリボンが結ばれ、首には各々の名前がついたビーズのネックレスをつけています。
「見世物小屋の保育器で生命を取りとめた」ことに感謝する親と子供たち
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY 保育器を卒業した親子の同窓会
1934年7月25日に、前年夏のシカゴ万博で「保育器を卒業」した赤ちゃんの同窓会を開催。1933年に世話をした58人の赤ちゃんのうち、41人が母親と共に集まり再会する様子は、地元のラジオなどで生放送されました。クーニー氏の保育器展示場は、面白半分の見世物小屋ではなく、かけがえのない医療施設として紹介されたそうです。どの赤ちゃんも丸々と健康的に育っていますね。低出生体重児の面影はありません。
「見世物小屋の保育器で生命を取りとめた」ことを恥じる親子はおらず、病院では助けてくれなかった小さな命を受け入れてくれたことに「あなたの保育器がなければ、私の人生はなかった」と深く感謝しているそうです。
マーティン・クーニー医師は、謎に包まれた人物
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY マーティン・クーニー(本名 マイケル・コーエン)医師
マーティン・クーニー医師は、ライプツィヒとベルリンで医学を学んだ医師と自称していますが、生年月日や経歴も詐称しており、謎に包まれた人物。実際には医師免許を持っていなかったようです。
●保育器に入った赤ちゃんの展示は、どこから思いついたのか。
●25セントの入場料だけで、保育器の赤ちゃんの費用が40年間も全額まかなえたのか。
●医師免許を持たないにも関わらず、新生児医学に対しての知識は医者以上にあった。
など、多くの疑問があります。
クーニー医師の本名はマイケル・コーエン(Michael Cohen)で、ユダヤ人。ユダヤ人は、優生思想によるナチのホロコーストで膨大な数の生命が奪われた悲しい歴史があります。ヨーロッパで多くの命が奪われていた時、クーニー医師はアメリカで小さな命を救い続けました。そして、1950年コニーアイランド近くのブルックリン区シーゲート(居住者以外の部外者が入れないエリア、ユダヤ系住民が多い)の自宅で80歳で亡くなりました。
マーティン・クーニー医師 年表
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY マーティン・クーニー医師と赤ちゃんを世話する実娘ヒルデガード
1869年 ポーランド・クロトシェンで出生
1888年 19歳で米国に移住
1897年 英ロンドン・アールズコートの展示会で保育器展示が大ヒット。初日だけで約3,600人が訪れた
1898年 米ネブラスカ州オマハで開催された万博で保育器展示
1903年 米ニューヨーク・コニーアイランドの遊園地(ルナ・パーク及びドリームランド)が拠点に。看護師の一人、アナベルと結婚
1907年 妻が6週間早産し、体重がわずか3パウンド(1,360グラム)の娘ヒルデガードを出産。ヒルデガードは後に看護師として、父親の事業を助ける
1936年 妻が脳外科手術中に死亡。クーニー医師は精神的にかなり落ち込む
1939年 ニューヨーク万博(クイーンズ区フラッシング) に出展者として投資し、財産の多くを失う(入場料が高すぎた上、会期中に第2次世界大戦が始まる)
1943年 クーニー医師は引退。ニューヨーク市に保育器の寄付を申し出るが断られる
米ニューヨーク市・コーネル大学病院が市内初の新生児集中治療室を開設。多くの病院が保育器を使用し始める
1950年 クーニー医師は80歳で逝去。ニューヨークタイムズで死亡記事に掲載され、葬式には無事育った低出生体重児卒業生が参列
All the World Loves a Baby(世界中の皆が赤ちゃんを愛している)
(C)THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY マーティン・クーニー医師と健康に育った保育器卒業生
保育器に入った低出生体重児を見世物にすること、世に物議を醸し出しました。クーニー医師は「医療機関が保育器を導入するなら、直ちに赤ちゃんを見世物にするのは止める」と言ったそうですが、結局多くの病院が保育器を使用しだしたのは、クーニー医師の保育器の40年も後のことでした。小さな生命を救おうとしなかった医者の代わりに、手を差し伸べたクーニー医師の偉業を考えると、医学とは何なのかと考えられずにはいられません。
クーニー医師の保育器展示場”The Incubator Babies(保育器に入った本物の赤ちゃん)”の入口看板には、”All the World Loves a Baby(世界中の皆が赤ちゃんを愛している)”と書かれていました。命の恩人のクーニー医師を育ての父とみなし、毎年「父の日」には”The Incubator Babies(保育器に入った本物の赤ちゃん)”を家族で訪れて感謝する保育器卒業生もいたそうです。
参照
Miracle at Coney Island Claire Prentice
‘The Strange Case of Dr. Couney’ jewish standard
Lucille Horn, Who Was Nursed To Health In A Coney Island Sideshow, Dies At 96 NPR
Babies On Display: When A Hospital Couldn’t Save Them, A Sideshow Did NPR
The Man Who Ran a Carnival Attraction That Saved Thousands of Premature Babies Wasn’t a Doctor at All Smithsonian Magazine
保育器(クベース)はママの子宮の代役 Small Baby Jp
Dr. Martin Couney Inventor of the Baby Incubator Coney Island History Project
How one man saved a generation of premature babies BBC News
Entrepreneur Couney Brought Incubators to the Preemies American Institute for Economic Research
ホロコーストについて ホロコースト百科事典