(C) Hideyuki Tatebayashi
アートにそれほど詳しくないあなたでも「ジャン=ミシェル・バスキア」という名前を聞いたことがあるかもしれません。
2017年5月に日本最大のインターネット通販「ZOZOTOWN」運営代表の前澤氏が、バスキアの絵“Untitle(無題)”を123億円(1億1,050万ドル 2017年5月当時換算)で落札、また2017年11月にはオノ・ヨーコ氏が20年間所有していたバスキアの“カブラ(Cabra)”が12億3千万円(1,095万3500ドル 2017年11月当時換算)で落札されています。
共に世界最古の競売大手会社サザビーズ(Sotherby’s)が手がけたバスキアの絵は落書きのようにも見えますが、バスキアとはいったいどんなアーティストだったのでしょうか。
ジャン=ミシェル・バスキア 年表
27歳という若さでこの世を疾走していったバスキア。彼のバックグラウンド、才能、人となりを知った時、あなたはもっとバスキアに魅力を感じるかもしれません。
物心がついた時から、人生を描いていた / 0歳〜10歳
ニューヨーク クリスティーズのPost-War & Contemporary Art Afternoon Session(2017年11月オークション)ジャン=ミシェル・バスキア作 Jean-Michel Basquiat (1960-1988) Untitled (Scoreboard) (C) Sara Aoyama
【バスキア0歳】
1960年12月22日、ハイチ出身の父とプエルトリコ出身の母の間にジャン=ミシェル・バスキアは誕生し、ブルックリンのパークスロープで育つ。
【バスキア7歳】
1968年 アルフレッド・ヒッチコックの映画、自動車、漫画、そしてマッド・マガジン(Mad Magazine)のAlfred E. Newmanのキャラクターに影響された漫画的な絵を描き続けていた。”彼はいつも非常に明るく、驚くべき才能を持っていた。彼は3歳か4歳の時から、彼の人生のすべてを描いていたんだ(バスキアの父談)”
1968年5月 ストリートでボール遊びをしている時に、自動車事故に遭う。重傷を負い、1ヶ月入院。母から受け取った解剖学図は、後年の彼のアートに大きな影響を与える。
1968年 父母離婚。バスキアと妹二人は父親に引き取られる。
翼を広げられなかった籠の鳥 / 11歳〜16歳
ニューヨーク クリスティーズのPost-War & Contemporary Art Afternoon Session(2017年11月オークション)ジャン=ミシェル・バスキア作 Jean-Michel Basquiat (1960-1988) Untitled (C) Sara Aoyama
【バスキア12歳】
1973年 母マチルダは精神病院に収容され、その後入退院を繰り返す。
【バスキア14歳】
1975年 バスキア初の家出。地方のラジオ局から父親が呼び出される。”彼は服従することが嫌い。いつも問題ばかり起こしていた。(バスキアの父談)” バスキアは父親から精神および肉体的な暴力に耐えられなくなり、家を出たという説もある(ArtListr )。
【バスキア15歳】
City-As-School ウエストビレッジの端にある
(C) Sara Aoyama
1976年 ブルックリンの高校(Edward R. Murrow High School)から、アートの才能はあるが一般的な教育機関に馴染めない子供たち(ある種の問題児)のために高校卒業の学位が与えられる専門的学校、City-As-Schoolへ転校。親友の卒業式で、訓辞中の校長の頭にシェービングクリーム入りの箱をぶつけるなどのトラブルを起こす。最終的にあと1年で卒業出来るのを待たず中退。この学校は現在も存在する。
http://www.cityas.org
1976年12月 バスキア再び家出。2週間グリニッジビレッジのワシントンスクエアパークでぶらぶらしていた。連れ戻した父親に”パパ、僕はきっと、すっごく有名になるよ” と宣言。
ナイトクラブの常連 マドンナも恋人だった / 17歳〜20歳
ニューヨーク クリスティーズのPost-War & Contemporary Art Afternoon Session(2017年11月オークション)ジャン=ミシェル・バスキアとアンディ・ウォーホルとの共同作品 Andy Warhol & Jean-Michel Basquiat (1928-1987 & 1960-1988)Collaboration (C) Sara Aoyama
【バスキア17歳】
1978年 バスキアは実家から独立。父親は理解(あるいは諦めて)の上、バスキアに金銭を与えて送り出す。
1978年 バスキアは独立後、水を得た魚のごとく、活動を始める。交友関係を深め、様々な友人の家を泊まり歩く。ナイトクラブの常連で、バスキアのグループは「ベイビー群団(Baby Crowd)」 と呼ばれていた。
1978年 バスキアはハンドメイドのポストカードとTシャツを売って、わずかな生活費を稼いでいた。彼はSoHoのレストランで、アンディ・ウォーホルにアプローチし、ハガキを売りつけている。ウォーホルと一緒にいたメトロポリタン美術館のキュレーターで評論家のゲルツァーラーは”まだ小僧だ(too young)”とバスキアを追い払っている。ゲルツァーラーは、キース・へリングの才能はいち早く発見している。
1978年 バスキアはアレクシス・アドラー(Alexis Adler)と付き合い出し、二人一緒にダウンタウンの友人の家に泊まっていた。”バスキアは、冷蔵庫、段ボール箱、研究室用コートなど、家中のあらゆるものに絵を描いてしまった(友人談)”
バスキアが実家を出てから、恋人と暮らしたニューヨーク イーストビレッジ(アルファベットシティ)のアパート。現在は高級アパートになっている。
(C) Sara Aoyama
1978年 バスキアと恋人のアドラーは、イーストビレッジ(527 East 12th Street)の小さなウォークアップ6階建て(階段のみ)のアパートに移る。住所不定だったバスキアの最初の固定住所になった。この期間中、彼は映画関係、ミュージシャン、アーティスト仲間と、「新しい」ダウンタウンのスポット、マッド・クラブ(Mudd Club)、クラブ57、CBGB、Hurrah’s、Tier 3のの常連になる。Patti Astor、デビッド・バーン(トーキンヘッズ)、ブロンディ、マドンナ、Tina Lhotsky、B-52、ジョン・ルーリー、ディエゴ・コルテス、Edit DeAk、アン・マグナソン、ジョン・セックスと共に、バスキアはマッド・クラブ(Mudd Club)でシーンを作っていた。バスキアは、マッド・クラブのダンサーであったマドンナとも付き合っていた。マッドクラブには、ウォーホル、デビッド・ボウイなどセレブも出入りしていた(当時マッドクラブのドアマンの記事)。
【バスキア18歳】
1979年 ニューヨークの有名な美術学校スクールオブビジュアルアーツ (School of Visual Arts)の特待生であるキース・へリングと出会う。
【バスキア19歳】
1980年 映画プロデューサーGlenn O’Brienにより、アンディ・ウォーホルを紹介される。
【バスキア20歳】
1981年12月 バスキアについて最初の記事(December 1981 issue of Artforum) 、”The Radiant Child(光り輝く子供たち)” が掲載される。
地球上のキャンパスは描き尽くした / 21歳〜27歳
ニューヨーク クリスティーズのPost-War & Contemporary Art Afternoon Session(2017年11月オークション)Jean-Michel Basquiat (1960-1988)Untitled (C) Sara Aoyama
【バスキア21歳】
1982年3月 米国で初の個展を開き、大成功を収める。イタリア・スイス・オランダほかで出展。
【バスキア22歳】
ウォーホル所有のバスキアのスタジオ
(C) Hideyuki Tatebayashi
1983年から1988年に亡くなるまで製作と生活の場だった
(C) Hideyuki Tatebayashi
1983年8月15日 バスキアは、アンディ・ウォーホルが所有するビル(57 Great Jones Street)に移動。以降このスタジオが仕事場であり、生活の場となる。ウォーホルとバスキアは一緒に仕事をし、お互いの肖像画を描いたり、アートイベントに出席したり、人生や芸術の哲学について定期的に語り合っている。
【バスキア23歳】
1984年 大手競売会社クリスティーズの春のオークションで、Untitled (Skull)が19,000ドル(約212万円)で落札された。前年度に4,000ドルの価格で購入されたものだった。
【バスキア24歳】
1985年2月 NYタイムズマガジンの表紙に登場。
1985年 薬物によりバスキアの健康が悪化し、顔に吹き出物が目立つようになる。
【バスキア26歳】
1987年2月22日 アンディ・ウォーホル逝去。
【バスキア27歳】
1988年8月12日 薬物過剰摂取によりスタジオ(57 Great Jones Street)で死亡しているのが発見される。享年27歳。
“Chronology” Basquiat.com
“Jean-Michel Basquiat: ‘Painter to the core’” Christies Auction House
“JEAN-MICHEL BASQUIAT – 6 INTERESTING FACTS” Art Listr
バスキア語録
“Papa, I will be very, very famous one day.”
あらゆる線には、意味があるんだ。
“Every line means something.”
仕事をしている間、芸術について考えることなんてないよ。人生について考えようとしているのさ。
“I don’t think about art when I’m working. I try to think about life.”
僕はいくらか金を持ってた。かつてないほど最高の作品を仕上げた。僕は完全に孤立していた。たくさん仕事をして、大量のドラッグをやった。僕は、滅茶苦茶な人間だよ。
“I had some money, I made the best paintings ever. I was completely reclusive, worked a lot, took a lot of drugs. I was awful to people.”
僕は17歳の時から、きっとスターになると思っていた。僕の憧れのチャーリー・パーカーや、ジミ・ヘンドリックスについて考えたよ。彼らがどのように有名になったか、ロマンティックな気持ちを抱いていたのさ。(チャーリー・パーカー、ジミ・ヘンドリックスとも薬物過剰摂取で亡くなっている)
“Since I was 17 I thought I might be a star. I’d think about all my heroes, Charlie Parker, Jimi Hendrix. I had a romantic feeling about how these people became famous.”
ニューヨーク 大手競売会社クリスティーズ(Christie‘s)のバスキアのポスター
(C) Hideyuki Tatebayashi
周囲から見たバスキア
“He was always so bright, absolutely an unbelievable mind …. He drew and painted all of his life from the time he was three or four years old” (Gerard Basquiat)
バスキアは、冷蔵庫、実験用コート、段ボール箱、ドアなど、家中のあらゆるものに絵を描いてしまったわ(友人談)
“Basquiat painted on anything he could get his hands on: refrigerators, laboratory coats, cardboard boxes, and doors” (Mary Ann Monforton).
彼ら(バスキアを含む10代のグループがナイトクラブ通いをしていた)はゴージャスだった、とってもスタイリッシュで、夢のようなダンスを踊ったのよ。(アート雑誌創立者談)
“They were gorgeous, extremely stylish, and danced fantastically” (Edit DeAk)
彼はヘロインを止めようとしなかった。彼は素晴らしい人で、本当に才能があった。私は彼を愛さずにいられなかった。(マドンナ談)
“He wouldn’t stop doing heroin. He was an amazing man and deeply talented, I loved him,” .
私たちが別れる時、彼は私にくれた、彼の絵を私から取り返したの。そして、その絵を黒く塗りつぶしたのよ。(マドンナ談)
“When I broke up with him he made me give [the paintings he gave me] back to him. And then he painted over them black.”
黒人ゆえ、彼はいつもアウトサイダーだった。コンコルドを飛ばした後でも、イエローキャブは止められないだろう。(黒人ヒップホップアーティスト談)(タクシードライバーが人種で客の選り好みをすることを指摘している)
“Being black, he was always an outsider. Even after he was flying on the Concorde, he wouldn’t be able to get a cab” (Fred Braithwaite)
ウォーホルはバスキアを崖っぷちから引き戻せるたった一人の人間だったから、ウォーホルの死はバスキアが死に急ぐのを避け難いものにしたね。ウォホールが亡くなった後、バスキアの周囲には彼のような頼りになる人間はいなくなったんだ。(美術蒐集家談)
“The death of Warhol made the death of Basquiat inevitable, somehow Warhol was the one person that always seemed to be able to bring Jean- Michel back from the edge. …. After Andy was gone there was no one that Jean-Michel was in such awe of that he would respond to” (Donald Rubell 美術蒐集家).
意訳 青山沙羅
“Chronology” Basquiat.com
Madonna Says Jean-Michel Basquiat Took Back and Destroyed Paintings He Gave Her ArtNet News
スタイリッシュなストリート・チルドレン
映画『バスキアのすべて』予告編 シネマトゥデイ
バスキアの死後、20年間封印されていたというプライベートビデオ。30年前のバスキアは現代のニューヨーカーと少しも変わらず、スタイリッシュ。魅力を際立たせるドレッドヘアに、黒目がちの印象的な眼差し。ファッション性の高い彼は、実際コムデギャルソンのモデルとしてランウェイ(ファッションショー)にも立ったほど(写真)。ガムを噛みながら素早く絵筆を走らせ、踊るように人の間をすり抜けて行く。大人にならず、子供のままの心を持ったバスキア。
1970年代から1980年代の全米で最も危険で、アンダーグラウンドのナイトクラブが盛んで、最もカッコ良かったニューヨーク。デビッド・ボウイ、ボブ・ディラン、ミック・ジャガー、マドンナなど時代を震撼させるアーティストが数多く輩出された時期。お子様向けになってしまった現代のニューヨークとは、全く異なった顔を持っていました。この時代のニューヨークを、覗いてみたかったなと思います。
ファッションにも息づくバスキア
(C) Hideyuki Tatebayashi
(C) Hideyuki Tatebayashi
Supremeを始めファッションブランドとコラボする人気。キース・ヘリングのアートはクールでも、本人がややオタク坊やっぽいのに対して、バスキアは本人がビジュアル向け。
僕はブラック・アーティストじゃない
バスキアのアトリエだった建物に誰かが描いたバスキア
(C) Hideyuki Tatebayashi
短い人生の間に、約1250点のドローイング(線画)と約900点の絵画を描き続けたバスキア。アーティストとして有名になると、ディーラーは未サインの絵画を勝手に持って行き、関係者は絵を盗んでいくという、妄想なのか真実なのか分からない状況だったと言われています。「アート界のエディ・マーフィ」と揶揄される中、偏見に対してバスキアはアートと肌の色は関係ないと主張しました。
(意訳 青山沙羅)
“I am not a black artist, I am an artist.”
[Photos by Hideyuki Tatebayashi] ※無断で画像を転載・使用することを固くお断りします。
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Basquiat.com