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言葉の分からない国に旅に出かけると、ピクトグラムに大いに助けられますよね? ピクトグラムとはヨーロッパで生まれたという絵文字で、文字の代わりに絵を使って公共施設などの用途を案内するサインになります。例えば、出口へ駆け込む人のマーク=非常口といった感じのイラストですね。
他の代表例を言えばトイレの男女のマーク。世界中、どこを旅していても見かけますが、実はあのピクトグラム、日本開催の国際イベント発信で世界に大きく広まったとご存じでしたか?
そこで今回は日本がきっかけで世界に浸透した、トイレを意味するピクトグラムの誕生について紹介します。
1964年の東京オリンピックに向けてトイレのピクトグラムが考案された
(※画像はイメージです)
トイレのピクトグラム(ピクトグラフ)の歴史を見る前に、あらためてピクトグラムの意味を確認してみましょう。辞書を引くと、
<絵文字。また、絵を使った図表>(デジタル大辞泉より引用)
とあります。絵を使って何らかの意味を指し示すデザインは、世の中にたくさん。そのうちトイレのマークは、1964年の東京オリンピックで全面的に採用され、世界に大きく広まったという歴史があると言われています。
第1回目の東京オリンピックでは、五輪をアジアで初めて開催するにあたって、世界中から観戦に訪れる人たちが混乱しないようにと、情報伝達の手段としてピクトグラムを用意する必要がありました。その経緯は野地秩嘉著『TOKYOオリンピック物語』(小学館)など数々の書籍で語られています。
そのため、故・田中一光氏を筆頭に当時の若手デザイナーが美術評論家である故・勝見勝氏によって招集され、各競技を表すピクトグラムから、公衆トイレ・公衆電話など施設向けのピクトグラムまでが、体系的に考案されたと言います。
(第18回オリンピック競技大会(東京) ピクトグラム(競技シンボル) 1962年 AD ・D 原弘 D 山下芳郎)
日刊スポーツのウェブ版には、当時招集されたクリエーターの一人・原田維夫氏への取材記事が掲載されています。記事によれば、チームリーダーである故・田中一光氏をはじめ、横尾忠則氏などそうそうたるメンバーが招集されたそう。
旧赤坂離宮の地下室で、将来有望な若手デザイナーが各自本業を終えた後に、弁当1つで集まって制作をしたのだとか。競技用・施設用の各種のピクトグラムは、オリンピック開催を通じて世界的な評価を呼んだといいます。
東京オリンピックと同時期に羽田空港のサインや絵文字を担当してた村越愛策氏の著書『絵で表す言葉の世界』(交通新聞社)には、
<1964年の大会終了後、その結果は各国関係者に大きな影響を与えることになった>(『絵で表す言葉の世界』から引用)
と書かれています。スイスで出版されたデザインの専門誌でも、東京オリンピックのピクトグラムが次以降のオリンピックで継続的に採用され、万国共通の資格言語として発展してほしいと期待を持たれのだとか。
実際にプロジェクトを仕切った故・勝見勝氏は、社会還元を意図してトイレのサインを含む全てのピクトグラムの著作権を、デザイナーに放棄させています。結果として後のメキシコ、ミュンヘンなど歴代の五輪でも、東京五輪の競技用・施設用ピクトグラムが採用され、その都度進化・発展して普及していった経緯があります。
もちろん東京五輪以外にも、航空や鉄道業界の発展など幾つかの影響が重なり合って世界にトイレのピクトグラムが普及していったと考えられます。ですが、筆頭に挙げられる大きな要因の1つに、1964年の東京オリンピックがあるのですね。
さて、気になるトイレマークの誕生秘話は?
トイレのマークはさまざまなアイデアが出される
(第18回オリンピック競技大会(東京) ピクトグラム(施設シンボル) )
オリンピックを重ねるごとに、さまざまな時代のニーズと歩調を合わせ、世界的に広まっていったトイレのサイン、今ではそれらしい建物に掲げてあれば、条件反射的に「ここはトイレだ」と、海外旅行先であっても安心して駆け込めるほど定着していますよね。
今でこそ当たり前のサインとなっていますが、そもそもどうして男女のマークをもって、当時のデザイナーたちはトイレを表現しようと思ったのでしょう。上述した日刊スポーツウェブ版の記事では、とぐろを巻いた大便や、脚を上げて用を足すトイプードル、帽子やハイヒールなど、さまざまなデザインが当時の議論でも候補に挙がったと紹介されています。
結果としてリーダーである故・田中一光氏の提案が、メンバーの協議の下で採用されたと言いますが、男女のマーク=トイレという発想になった経緯はどうだったのでしょうか。
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その点を、故・田中一光氏がかつて所属した日本デザインセンターに問い合わせると、当時のメンバーの一人で、日本デザインセンターの最高顧問である永井一正氏のコメントを広報を通じて得られました。永井一正氏と言えば、2020年の東京オリンピックのエンブレム選考で審査員の代表を務めた、デザイン界の巨匠ですね。
永井氏の記憶によれば、当時の参加メンバーには上述した故・田中一光氏、横尾忠則氏、原田維夫氏の他にも、山下芳郎氏、瀧本唯人氏、宇野亜喜良氏、福田繁雄氏、江島任氏、故・木村恒久氏がおり、メンバー全員がチームとなってアイデアを出し合ったと言います
「当時、トイレは全て和式だった。なので、トイレのマークといえば便器のマークしかなかった。これではダメだ、外国の人たちに伝わらない、ということでこの男女の形になった。シャワーも、シャワーってなんだ? 上から浴びるらしい、ということから始まっているので、どのピクトグラムにしても、試行錯誤して作った」
以上は広報を通じて得た永井一正氏のコメントです。なるほど当時のトイレが和式だった、シャワーも一般的ではなかったという時代背景は、今に生きていると見落としてしまいますよね。
とはいえ永井一正氏によれば、トイレのサインを故・田中一光氏をはじめとする、日本人のデザインチームが世界で初めて考案しているかどうかは、疑問が残るとの話でした。1964年の東京五輪の施設に全面的に導入され、世界的に広まるきっかけとはなったものの、それ以前にどこかで類似のサインが作られている可能性は十分にあるという話ですね。
「視覚言語の先駆者は、ノイラートである。ノイラートがトイレの男女マークとして何か作っているかどうかはわからないが、調べればなにか分かるかも」
との情報もありました。ノイラート(1882-1945)とはオーストリアの学者で、何らかの事象と意味を視覚的に(絵文字で)表現する「アイソタイプ」と言われるシステムを考案し、広めた人ですね。そのオットー・ノイラートまでさかのぼってみないと、分からないという話になります。
一体、世界で初めてトイレの男女マークを考案したのは誰?
さらに取材を続けてみました!
ノイラートやモドレーは「男女のマーク=トイレ」のピクトグラムを考えていない
そこでノイラートや、ノイラートが考案したピクトグラム、さらにノイラートと同時代に生き、数々の図記号(絵文字)の普及に貢献したルドフル・モドレイ(1906-1976)について詳しい、九州大学大学院教授の伊原久裕先生に話を聞いてみました。伊原先生によれば、
「ノイラート、あるいはモドレイが、アイソタイプ、あるいは彼らのシンボルのなかの男女のピクトグラムを用いてトイレのサインを制作した事例はありません」
とのこと。男女のマーク自体は既に昔から開発されているのもの、その男女のイラストを使ってトイレのサインにした事例はないのだとか。
一方でUIC(国際鉄道連合)という組織が、1931年の段階でピクトグラムを使って、旅行者のために公共サインを作っているそう。ですが、男女を使ったトイレのサインはこちらにも含まれていないと伊原先生は言います。
ただ、そのUIC(国際鉄道連合)が1961年から、鉄道の駅舎用にピクトグラムを検討し始め、1963年にはセット見本が配布され始めているという情報もあるのだとか。このセット見本には、当然トイレのサインが含まれていると考えられると言います。こちらに「男女のマーク=トイレ」のサインがあれば、UICが世界初の可能性も出てきますよね。
さらには上述した村越愛策著『絵で表す言葉の世界』(交通新聞社)を見ると、米国の国際航空運送協会(IATA)によって1962年に発行された『空港設備設計に関する手引書』の初版には、男女のマークをもってトイレのサインを表現する図記号が含まれていると読み取れる内容が掲載されています。
そこで早速パリに本部を置くUIC(国際鉄道連合)と米国のIATA(国際航空運送協会)の広報に、当時のトイレのサインについて問い合わせてみました。IATAに関しては、『空港設備設計に関する手引書』の初版が保存されていないとの返答に・・・。
UICについては、伊原先生の指摘通り、旅行者に向けた公共サインを作成しており、1932年には公共サインを掲載したリーフレットを出版していると教えてくれました。しかし、そのリーフレットに収録されたトイレのマークは「W.C.」と文字で表現されているだけ。実際に見せてもらいましたが、確かに文字でした。
その後、初代のリーフレットは1948年に出版が停止され、1960年の1月に新たなリーフレットが出たと言います。現在もその新リーフレットは更新を繰り返しながら出版されているようですが、1960年の初版は手元にないため、追加で調査してくれるとの話になりました。
しかし、残念ながら、詳しい回答を得られないまま、記事の締め切りを迎えてしまう結果に・・・。
九州大学大学院の伊原先生によれば、
「男女のピクトグラムを使ったトイレのサインの出現は、やはり1960年代を待つことになりそうです」
「UICのピクトグラムは新幹線事業を推進していた日本へも当然紹介されたことでしょうから、それがなんらかのかたちでデザイン関係者に出回っていた可能性もあります」
と考えられるのだとか。以上を踏まえて物事を公平に見るのならば、UICやIATAのピクトグラムに何らかの影響を受けた故・田中一光氏が、男女のマークをもってトイレのサインにしようと考えたとも言えそうですね。
しかしながら、記事を公開後、UIC(国際鉄道連合)の広報担当者から新情報が入ります。1960年1月にUICがリリースした改訂版(新)リーフレットの初版には、男女のピクトグラムを使ったトイレのサインが含まれていないとの情報を得ます。
改訂版(新)リーフレットの第3版(1964年1月1日)に、初めて男女のトイレサインが初めて登場していますが、トイレを指し示す基本のサインはWCで、男性のピクトグラム、女性のピクトグラムは男性用、女性用の区別のために使われていると教えてくれました。
東京オリンピックに向けたピクトグラム制作会議は、1964年6月に召集が掛けられています。UICの改訂版(新)リーフレット(1964年1月1日)の方が早い計算になりますが、実は故・田中一光氏が1963年の段階で既に男女のピクトグラムを使ったトイレのサインを発表しているという話は、次のページに記しています。
そこで、さらなる事実。故・田中一光氏は1963年に既に「男女のマーク=トイレ」のサインを制作していた!?
群馬県館林市の市庁舎でトイレのピクトグラムが生まれた?
(※画像はイメージです)
ただ、1964年に東京オリンピックのピクトグラム制作でデザインチームのリーダーを果たした故・田中一光氏は、1963年の段階で既に、男女のマークをもってトイレを意味するサインを、群馬県館林市の旧本庁舎(現・市民センター)に制作していたという事実も発見されています。
東京オリンピックの前年、1963年に完成した地下1階・地上5階の館林市旧本庁舎は、故・菊竹清訓氏が設計し、細部のデザインを故・田中一光氏が務めています。
この旧庁舎のトイレに実は、翌年の東京五輪で採用されるトイレのマークの原型が、田中一光氏の手によって制作され、採用されているのですね。
当時の情報に詳しい、同市出身のデザイナー・田中茂雄氏(館林市の市民センターの保存プロジェクト、館林城の再建をめざす会の代表)に聞くと、1963年にトイレのピクトグラムが制作されていたという事実が、1963年9月号『建築』(青銅社)で明らかにされていると言います。
下に掲載した画像は、故・田中一光氏が館林庁舎に制作したピクトグラムを、田中茂雄氏がトレースしたイメージになります。間違いなく男女のマークを用いて、トイレのサインを制作していますよね。
後の1964年に採用されるサインの原案は、庁舎竣工の1963年の段階で既に存在していたと分かります。しかも着工は1962年7月ですから、1962年の段階でアイデアができていた可能性もあるはず。
(※田中茂雄氏による、故・田中一光氏のピクトグラムのトレース画像 館林城の再建をめざす会ホームページより)
こうなると、いよいよトイレのサインの考案者について、UIC、IATAの回答がない現状ではなんとも言えなくなってしまいますが、いずれにせよ1960年代の初めごろに考案されたトイレのマークは、故・田中一光氏をはじめとするデザインチームの総意として、1964年の東京オリンピックで全面的に施設に採用され、世界的に広まる大きなきっかけとなったという点は、間違いがありません。
UIC(国際鉄道連合)からの連絡により、少なくとも故・田中一光氏の方が、男女のピクトグラムを使ったトイレのサインをUICよりも先に発表していると判明しました。引き続き米国の国際航空運送協会(IATA)によって1962年に発行された『空港設備設計に関する手引書』の初版について、調査を進めています。
2020年の東京オリンピックの時期を迎えたら、用を足すついでに会場のトイレのマークをチェックしてみてください。何でもないトイレのマーク1つをとっても、前の東京オリンピックを契機に世界に広まり、また東京に戻ってきたというユニークな歴史があるのですね。
仮に競技観戦用のチケットを手に入れられなかったとすれば、トイレのマークだけでも五輪会場に眺めに行ってみては?
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