夏目漱石
夏目漱石は、34歳のときに文部省からイギリス留学を命じられました。家庭があるなかの単身留学は、漱石の希望ではありませんでした。
明治時代のロンドンに日本人がどれだけいたのだろうかと思いますが、漱石は「味の素」の発明者である池田菊苗や、貿易商社の駐在員といった日本人の友人たちと交流があったそうです。
しかし、ドイツ留学中の文学者である藤代禎輔にあてたポストカードに「僕ハ独リボツチデ淋イヨ」と書いていたのが見つかっています。奥さんが筆まめでなかったのも、孤独感を強めたことでしょう。
漱石が悩んだ、孤独感、下宿の家賃の高さは、現代の留学生とそう変わらない悩みです。それでも、当時どれほど大変だったのか想像に難くありません。
「倫敦(ロンドン)に住み暮らしたる二年は尤(もっと)も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍(ご)する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」と伝えています。
津田梅子
新しい5000円札のモデルとなったことで、脚光を浴びている津田梅子。
彼女がアメリカ留学に出発したのは、わずか6歳!ワシントンで梅子を受け入れた日本の弁務公使は大きな戸惑いを見せたと言われています。
そんな時期の娘を手放すのはどんな親だろうかと思うかもしれませんが、梅子の父親もアメリカ留学経験者で、娘にも是非体験させたいと考えて岩倉使節団に応募したようです。
せっかく11年間アメリカで一流の教育を受けて帰国するも、使節団を企画した役場である開拓使が解散してしまっていたこともあり、日本には梅子のような人材が活躍できるような仕事がありませんでした。また、アメリカのカルチャーがベースとなっていた梅子は、日本の女性の地位の低さに衝撃を受けます。
女子英学塾(現・津田塾大学)を立ち上げるべく、再度アメリカ留学をした際は、ナイチンゲールやヘレンケラーを訪問したそうです。
新渡戸稲造
新渡戸稲造は、第一次大戦後に国際連盟の事務局次長となった人物で、その活躍から「最初の国際人」と呼ばれました。以前5000円札のモデルだったのを覚えている方も多いでしょう。
札幌農学校(現・北海道大学)の一期生として、クラーク博士の指導を受けた稲造は、博士の影響でクリスチャンになります。その後東大を経て、アメリカへ渡った稲造は、キリスト教の中でも華美さから遠いところにあるクエーカー教を熱心に信仰する上流出身のメリー・エルキントン嬢と出会います。
その後ドイツ留学の3年の間、彼女とは文通を続けていたのですが、ある日手紙で彼女からプロポーズを受けます。日本に連れて帰ることを考えて相当悩んだようですが、フィラデルフィアで結婚式を挙げました。特に彼女の家族の反対はすさまじかったものの、国際結婚を果たし、公私ともに日本の国際人のパイオニアとなったわけです。
当時の人々の人種差別やカルチャーショックからくる苦労を想像すると、だいぶ生きやすい時代にいるのだなと思います。