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ミュンヘンの中心、マリエン広場は新、旧市庁舎に囲まれ、一年を通じて様々なイベントが目白押しです。広場に面した建物の壁にはミュンヘンの歴史上重要な人物たちが勢揃い。彼らの彫像をじっくり見ると、ミュンヘンの歴史が見えてきます。
街の中心、マリエン広場
ドイツで三番目に大きい都市、ミュンヘン。その中心の広場がマリエン広場です。旧市街を南北に走る街路と東西に走る街路の交差点にあります。
広場には多くのツーリストが集まり、華やかな雰囲気です。特に11月下旬からはマリエン広場でもクリスマス市場が開かれます。クリスマスデコ、ホットドック、温かいドイツ語圏特有のグリューワインなどの屋台が所狭しと立ち並び、人々で溢れ、クリスマス気分を満喫することができます。
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この広場を囲み込んでいるのが旧市庁舎と新市庁舎です。共に第二次世界大戦の戦火を逃れる事はできず、大部分が再建されたものです。
旧市庁舎は広場の東にあり、尖塔と大きな時計が目印です。塔の中にはおもちゃ博物館があります。歴史的には、ナチスによるユダヤ人迫害の幕開けとなる「水晶の夜」のきっかけとなった集会が開かれたのがこの旧市庁舎の一室であり、ドイツ人にとって、忘れる事は決して許されない場所です。
新市庁舎ではからくり時計が有名で、二つの異なる歴史的出来事がからくり人形によって繰り広げられます。
一つ目は、16世紀半ば、公爵の結婚式の際にマリエン広場で行われた騎士のトーナメントです。その下では、桶職人たちが陽気に踊ります。ペストの猛威が過ぎ去った後、皆が罹患することを恐れ未だ家に閉じこもっていた時、彼らは最初に通りへ飛び出し、ペストが過ぎ去った喜びとともに、そして皆を鼓舞するために踊ったのです。
どんなことがあっても豪快にビールを飲んで笑い飛ばす、そんなビールの祭典、オクトーバーフェストで目にするミュンヘンっ子の気質は中世の時代から脈々と受け継がれてきているんですね。
建物を飾る多くの彫像
この二つの建物には、ミュンヘンの街の歴史を語る上では欠かせない人物たちの彫像が立ち並び、広場に集まる人々を見守っています。オールスター大集合とでもいうべき、蒼々たる顔ぶれです。まさに、マリエン広場を制する者は、ミュンヘンを制す、といっても過言ではないほど、彼らのことを知れば知るほど、ミュンヘンの街を、より深く理解することができます。
この中から街の創造者ハインリッヒ獅子公と、バイエルン王家の王様たち4人を紹介します。この人物たちを知っているとミュンヘンとその周辺巡りもぐっと面白くなりますよ。
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ハインリッヒ獅子公
ミュンヘンを語る上で避けては通れない、ハインリッヒ獅子公。なぜなら、ミュンヘンの歴史はこの人からはじまるからです。彼は、神聖ローマ帝国皇帝、フリードリッヒI世、通称アカヒゲのいとこでした。フリードリッヒI世は十字軍への参加などで有名な皇帝です。ハインリッヒ公の人生は、このいとこの皇帝との確執で大きく揺れ動きました。
1158年、ハインリッヒ公は塩の関税を巡ってミュンヘン近郊の司教と対立、現在のミュンヘン旧市街近くのイザール川に橋を架けました。これが、ミュンヘンが史実に登場する最初の記述です。その後、塩の交易によってミュンヘンは都市として大きく成長していきます。しかし、ハインリッヒ獅子公は、皇帝との確執から失脚し、バイエルンの地を失ってしまいました。
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そんな彼は、東側の旧市庁舎の外側に立っています。盾と剣を持った騎士の出で立ち。その体躯といい、凛々しい顔つきといい、かなりのイケメンです。
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ところで、ミュンヘンを創ったその多大なる業績から、なんと、ハンリッヒ公はドッペルゲンガーとして新市庁舎の壁にも立っているんです。
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からくり時計の上方に、三人の人物像が立っていますが、その真ん中がハインリッヒ公です。この一番重要な位置を占めているということからも、ミュンヘンがハンリッヒ公を高く評価していることが分かります。
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バイエルン王家 マキシミリアンI世ヨーゼフ、ルートビッヒI世
その後、バイエルンの統治はヴィテルスバッハ家の人々の手に移りました。この公爵家が王家になったのは、ナポレオンがヨーロッパを席巻し、神聖ローマ帝国が消滅した時の事です。そしてこれから紹介するマキシミリアンI世ヨーゼフ、ルートビッヒI世、マキシミリアンII世、ルートビッヒII世は、新市庁舎の時計台の下に4人並んで立っています。
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4人の中で一番左に立っているのが、初代王になったマキシミリアンI世ヨーゼフです。波乱に満ちた人生でした。ヴィッテルスバッハの分家出身で、当初、バイエルン・ヴィッテルスバッハ家を相続する予定はありませんでした。フランス革命が起きた時にはフランス陸軍大佐として働いていたので、革命政府から追われ逃亡生活。
その後、バイエルン公爵に跡継ぎが生まれなかったので,バイエルンの公爵へ、ナポレオンのヨーロッパ統一によって、はっと気づいたらバイエルン王でした。彼は、その後の王たちとは対照的に、存命中から愛されキャラで、時勢を見極める事に長けていました。そうじゃなければ王様にはなれませんよね!
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その右側に立つのは、息子、ルートビッヒI世です。彼は父と共にフランス革命政府に追われた事がトラウマになり、フランスが大嫌いでした。しかし、芸術に理解を示し、ミュンヘンを西のアテネにしたいと野心に燃え、ミュンヘンを大きく造り変えてゆきます。お抱え建築家に壮麗なルートビッヒ通りやケーニヒス広場を設計させ、多くの建物を残しました。
また、女性の美にも敏感で、ニュンフェンブルク城にある美人画ギャラリーを創らせています。しかし、その美人画にも描かれた女性のひとり、ローラ・モンテスとのスキャンダルにより失脚してしまいました。美を愛し,美に溺れた、彼の人生もまた波乱に満ちたものでした。
住所:Schloss Nymphenburg 1, 80638 Munich, Germany
開館時間:【4/1〜10/15日まで】 9:00〜18:00、 【10/16〜3/31まで】 10:00〜16:00
閉館日:1/1、カーニバルの火曜日、12/24〜25、12/31
マキシミリアンII世とルートビッヒII世
さらに右に進むと、ルートビッヒI世の息子、マキシミリアンII世の立像です。父、ルートビッヒI世と息子、ルートビッヒII世に挟まれ、影の薄い王様などと言われていますが、革新的なことに挑んだ王でした。
今では高級ブティックの立ち並ぶマキシミリアン通りでは新しい独自の建築様式を追い求め、現在もマキシミリアンスタイルという様式美の建物が立ち並ぶ格調高い街路を誕生させました。また政治的に激動の時代、強国プロイセンとオーストリアとの間の第三勢力をまとめようという志の半ばに、若くして他界してしまうという波乱の人生でした。
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その後を若くして継いだのが、一番波乱に富んだ人生を歩んだルートビッヒII世です。王の音楽家ワーグナーへの心酔、そして多くの築城は激動するヨーロッパの情勢にはそぐわないものでした。挙げ句、狂王のレッテルを貼られ、謎の死を遂げてしまいます。ヴィッテルスバッハ家の王の中でも、現在、ダントツの知名度と人気を誇るルートビッヒII世は、時計台の下のグループの一番右側に、もの静かに立っています。
住所:Marienplatz, 80331 Munich, Germany
このように、マリエン広場に立っている「波乱の人生」を歩んだ5人の歴史上の人物を、駆け足で紹介しました。彼らの業績と想いが濃密に折り重なってミュンヘンの街ができているといっても過言ではありません。もちろん、マリエン広場には、それ以外の重要人物がたくさん立っています。皆さんもマリエン広場で自分の推しメンを決めて、彼らの業績とミュンヘンもしくはバイエルンでの足跡を辿ってみてください。