【6千人を救った命のビザ】東洋のシンドラー「杉原千畝」

Posted by: Sae

掲載日: Nov 29th, 2014

杉原千畝(ちうね)を知っていますか?彼は、第二次世界大戦に揺れるリトアニアで、歴史に残る勇気ある行動で、6千人にも上るユダヤ人の命を救った英雄です。今日は、日本人として、ぜひ知っておきたい杉原千畝の軌跡をご紹介します。

【6千人を救った命のビザ】東洋のシンドラー「杉原千畝」

ユダヤ人の英雄Mr.スギハラ

多くのユダヤ人の運命を大きく変えることとなった「命のビザ」は、杉原氏が、1939年リトアニアはカウナスの日本領事館領事代理に任命されたことに端を発します。杉原氏がリトアニアに到着したころ、リトアニアの人口の4分の1を占めていたユダヤ人は、迫害されることなく平和に暮らしていました。その時期、リトアニアとは対照的に、ポーランドでは、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害が激しさを増し、多くのユダヤ人がリトアニアへ逃れてきていました。彼らは、リトアニアに住むユダヤ人に、ナチスによる迫害の恐ろしさを伝えましたが、信じる者は多くなかったと言います。

【6千人を救った命のビザ】東洋のシンドラー「杉原千畝」

そんな状況も、1940年6月ソビエト連邦のリトアニア侵攻により一変。多くのユダヤ人が出国を試みるも、すでにナチス・ドイツの支配下に置かれていた以東への避難はできませんでした。そんな中、皮肉にもソビエト連邦は、避難先の国の入国許可を得ていることを条件に、ユダヤ人がソビエト連邦を通過することを許可。

そこで彼らが目を付けたのが、日本の通過ビザでした。これが手に入れば、ソビエト経由で日本を通過、その先の亡命国行きが叶うとあり、カウナスの領事館には、連日100人を超すユダヤ人が通過ビザの発行を求めて押しかけました。

【6千人を救った命のビザ】東洋のシンドラー「杉原千畝」

ところが、日本の通過ビザを発行するには、「避難先の国の入国許可を得ていること」や「避難先の国までの旅費を持っていること」などの条件が定められており、日本政府からビザ発行の許可を得ることはできませんでした。

それでも、杉原氏は人道的観点から、自身の判断で日本通過ビザ発行を決断。正式な書類を持たない者にも、ビザを発行しました。リトアニアのソビエト連邦併合に伴い、カウナスの全大使館・領事館に退去命令が出された後も、20日間の滞在許可を得てまで、連日1枚1枚手書きでビザを発行し続けたのです。

滞在許可の最終日、杉原はカウナスを去ろうとする電車の中でも、最後の最後までビザを書き続けたと言います。そんなビザは、いつしか”Visas for life”=「命のビザ」と呼ばれるようになりました。その数、約1500枚。1家族に1枚のビザで、杉原氏は約6000名ものユダヤ人の命を救ったと言われています。

【6千人を救った命のビザ】東洋のシンドラー「杉原千畝」

そんな杉原氏を称えるため、カウナスの日本領事館は、執務室も含め、現在記念館として一般に公開されています。

杉原氏が1986年にこの世を去ってから、約28年が経とうとしています。不安定な世界情勢に嫌悪感を覚えるとき、かつて杉原氏のような人が存在していたこと、そして彼の成した偉業を再び思い出したいものです。

[All Photo by 特定非営利活動法人 杉原千畝 命のビザ]
[アジア歴史資料センター]
[Jewish Virtual Library]

PROFILE

Sae

Sae ライター

バックパックひとり旅に飽き足らず、中国でのインターンを経由し、最終的にオーストラリアで就職、移住。旅に出られないときは、お家で現地レシピに挑戦して癒されています。世界のおいしいもの、食器、路地が大好き。目標はアジア移住と早起き生活です。

バックパックひとり旅に飽き足らず、中国でのインターンを経由し、最終的にオーストラリアで就職、移住。旅に出られないときは、お家で現地レシピに挑戦して癒されています。世界のおいしいもの、食器、路地が大好き。目標はアジア移住と早起き生活です。

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