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第一回目の今回は、ダークツーリズムな旅をするならまず最初に訪れたい東西冷戦の象徴、「ベルリンの壁」。1961年8月13日、つまり55年前の今日にベルリンの壁は建設されたのです。
28年間存続し続けた、冷戦時代の象徴
ドイツの北東に位置する首都ベルリン。ドイツ最大の街でもあるベルリンには、近未来的な現代建築が立ち並び、美術館、博物館も多く見所が充実。近年では「世界で最もクラブカルチャーが盛ん」と言われるほど、テクノポップやクラブミュージックが人々の暮らしに溶けこんでいるようです。
魅力あふれるベルリンですが、冷戦中の真っ只中、1961年にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府によってベルリンの壁が建設されました。西ベルリンをぐるりと取り囲むように、そして人が乗り越えられぬように約3mもの高さに建てられたのです。
第二次世界大戦に敗戦し、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって東ドイツと西ドイツに分断されたドイツ。
東ドイツはソ連が統治。東ドイツ内に位置していたベルリンも東西に分断されることになり、東ベルリンをソ連が、西ベルリンをアメリカ、イギリス、フランスが統治することに。西ベルリンは西ドイツの飛地として東ドイツの領土に囲まれ、陸の孤島と化していたのでした。
資本主義の西ドイツや西ベルリンが経済成長していったのに対し、経済状況がどんどん悪化した社会主義の東ドイツ。自由と富を求めて西ドイツへ亡命する人々が後を絶たず、東ドイツ政府は自国の存在が脅かされていると感じ、亡命者を防止するために建てられたのがベルリンの壁なのでした。
1961年8月13日、東ドイツは西ベルリンを取り囲む壁をたった1日にして建設。その長さ、なんと155km! 突然出現した「壁」によって、家族や友人と引き裂かれてしまうことになった人々も多かったそう。自由で豊かな西ドイツの生活を求めて、離れ離れになってしまった家族に会うため、壁を超えようと試みる東ドイツの人々も少なくありませんでした。しかし東ドイツ政府は監視塔を設け、軍用犬を放し地雷を埋めるなど、亡命者を阻止するためのありとあらゆる手段を実施。
国境警備隊に見つかった亡命者は容赦なく射殺され、5,040人の脱国成功者がいた一方で、逮捕者は3,221人、犠牲者は239人に上ったと言われています。
抑圧を強いられた東ドイツ国民の不満は募るなか、1989年には東ドイツ国内で反政府デモが増加していました。そして同年の11月9日、東ドイツが旅行許可書発行の大幅な規制緩和を発表をしたのをきっかけに、ベルリンの壁はたちまち東西ベルリン市民によって取り壊され、ドイツ再統一の契機となったのです。
壁崩壊後のベルリン
ベルリンの壁は崩壊後ほとんどが撤去されたものの、現在でも記念碑として一部が残されています。「イーストサイドギャラリー」は文化財にも指定されており、世界中からのアーティストが手がけたアート作品が鑑賞可能。社会風刺や政治的なグラフィティも描かれ、見応えもたっぷり。
冷戦時代、東ベルリンと西ベルリンの境界線上にあった国境検問所、チェックポイント・チャーリー(Checkpoint Charlie)。西側の軍関係者や外交官、外国人旅行者が東西ベルリンを往来する唯一のルートでした。
東西ドイツ統一後、チェックポイント・チャーリーの跡地には当時の検問所が復元されており、屋根には片面にソ連軍兵士の写真、反対側には米兵の写真が掲げられています。
現在ではベルリンの人気観光スポットではありますが、当時この検問所が東西を隔てていたことに思いを馳せ、歴史の重みを実感しました。
旧西ベルリンにある、カイザー・ヴィルヘルム記念教会。第二次世界大戦中、連合軍によるベルリンの空襲で破壊されましたが、戦争の悲惨さを後世に伝えるためと現在でもそのままの状態で保存されています。教会の内部には、爆撃前後のベルリンの街の写真や、教会の遺品などが展示。すぐ近くでは現代の平和な日常が営まれている一方で、70数年前の戦争の痛々しさを今に伝える場所でした。
多くの人々の運命を変えることとなった、ベルリンの壁。
東西冷戦を象徴する場所を訪れて、歴史に思いを馳せる旅をしてみるのはいかがでしょうか?
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