古都ドレスデンから西へおよそ200キロ、東ドイツの小都市ワイマール。
かつてゲーテやシラーが暮らし「古典主義の都」として世界遺産に登録されているこの町は、ワイマール憲法ゆかりの地でもあります。
1919 年に成立し、1933年のヒトラー政権発足をもって事実上滅んだワイマール共和国とは、いったい何だったのでしょうか。そして、民主主義から恐ろしい独裁への転換を許したものとは、何だったのでしょう。
ワイマール共和国とは
ワイマール共和国とは、ドイツ帝国が第一次世界大戦に破れ、帝政が崩壊した後に成立した共和制国家のこと。「ワイマール共和政」あるいは「ドイツ共和国」とも呼ばれます。
1919年に産声を上げたワイマール共和国は、1933年のヒトラー政権の発足によって事実上崩壊。わずか14年の歴史に幕を閉じました。
当時最も民主的な憲法といわれたワイマール憲法をもつ共和制国家から、一人の指導者が絶大な権力を握る独裁国家へ・・・この一見極端に見える変化は、現代を生きる私たちにたくさんのことを教えてくれます。
ワイマール共和国の誕生
ゲーテとシラーの像が誇らしげに立つワイマールのシンボル、国民劇場。1919年、ここで国民会議が開かれ、ワイマール憲法の制定をもってワイマール共和国が誕生します。
その名前から、ワイマールが共和国の首都であったと誤解されがちですが、首都はベルリン。
憲法制定のための初回の国会が、敗戦と革命で混乱するベルリンを避け、ワイマールで開かれたために「ワイマール共和国」と呼ばれるようになったのです。
新たな政治体制下では、旧王族や貴族の政治的影響力が縮小し、かわりに実業界の実力者や、知識層、労働者運動の指導者など、市民層出身者が多く政界入りするようになっていきました。
ワイマール共和国の崩壊
1929年、アメリカの「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌によって、ドイツでも大量失業やハイパーインフレが深刻化。共和国政府に対する国民の不満は頂点に達していました。
そんななか反政府運動を展開して急速に支持を拡大したのが、かねてから共和国政府の転覆を狙っていたヒトラー率いるナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)でした。
ナチ党は、ドイツにとって過酷な内容だったヴェルサイユ条約の破棄や地代の廃止などを訴え、現在の苦境の原因はワイマール共和国の議会政治家にあるという批判を展開。労働者層を中心に熱狂的な人気を集めたのです。
1933年1月30日、ワイマール共和国大統領ヒンデンブルクによって、ナチ党の党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命されました。
このときヒトラー43歳。同じ年、国会審議を経ずに行政府がすべての法律を制定できる授権法(全権委任法)が成立しました。これにより国会は有名無実化。
憲法に反する法律の制定すらも可能だったため、ワイマール憲法は形骸化し、議会制民主主義に基づくワイマール共和国は葬り去られたのです。
ワイマール共和国崩壊の要因
ワイマール共和国がなぜ滅んだのかについては、さまざまな議論が重ねられてきました。その要因としてよく挙げられるのは、1919年のヴェルサイユ条約でドイツに課された巨額の賠償金と、1929年に起こった世界恐慌です。
国民の多くが不当だと感じていたヴェルサイユ条約を受け入れた共和国政府への不満や経済的負担、恐慌に伴うハイパーインフレや失業などの社会不安などがワイマール共和国の崩壊につながったともいわれますが、それだけでは共和国崩壊にいたるプロセスは説明しきれません。
今日では、ワイマール共和国終焉の本質的な原因は、共和国内部にあったという見方が主流になっています。
既存政党がいずれも未熟で、国民の利益を前提とした政治活動がなされていなかったこと、14年間に21もの内閣ができては崩壊するというありさまで、特に末期は議会政治が機能不全に陥っていたこと、また国民も上から支配されることに馴れきっており、「自らが主権者である」という意識が不十分だったことなどが指摘されています。
加えて、ワイマール憲法自体の構造的欠陥が、結果的にヒトラー台頭を後押しすることになったという一面もあるのです。
ワイマール憲法がヒトラー独裁への道を開いた?
ホロコーストという人類史上最悪の人道への罪から、ヒトラーは法律に反して非民主的に権力の座を手に入れたと思われることがあります。
確かにナチ党は、非合法的な武闘路線をとっていた時期もありましたが、1923年のミュンヘン一揆の失敗によってヒトラーの投獄と禁党処分を経験し、合法路線に転換。実際にヒトラーが権力を握るにあたっては、少なくとも表面上は合法的なプロセスを経ていました。
1932年7月の国会選挙により、ナチ党は国会第一党に躍り出ます。そして1933年1月にはワイマール共和国大統領ヒンデンブルクの任命により、ヒトラーが首相の座を手にしました。
その後ナチス・ドイツがヒトラーを頂点とする独裁への道を突き進んでいった背景には、ワイマール憲法48条に定められた大統領大権がありました。これを利用して、ヒトラーは「合法的に」民主主義を切り崩すことに成功したのです。
ワイマール憲法の弱点
ワイマール憲法は、男女平等の普通選挙や労働者の権利などが定められた画期的な内容で、当時最も民主的な憲法といわれていました。ところが、ヒトラー政権誕生の要因もまた、このワイマール憲法抜きには語れません。
ヒトラーが首相に上りつめることができたのは、ヒンデンブルク大統領の任命あってのことでした。
第一次世界大戦の名将で君主主義者だったヒンデンブルク大統領は、民主主義的なワイマール憲法の理念とそれに基づいた制度を守り抜く意思に欠けていました。右派勢力の支持を基盤に議会を排除した権威主義統治の実現を狙っていた彼は、そのためにヒトラーを利用できると考えたのです。
ワイマール憲法には条文の解釈と運用次第で、独裁的権力を生む余地があることに気づいていたヒトラーはこの機会を最大限に利用しました。
ワイマール憲法48条では、国家が危急の事態に瀕した場合、大統領緊急令を発令して「必要な措置を講ずる」ことができると定められていました。大統領緊急令の成立には国会審議は必要なく、「緊急事態」についての明確な定義もなかったため、大統領の裁量しだいでこれを発動することができたのです。
ヒトラー政権はこれを使って、ワイマール憲法が定める人身の自由や、言論・集会・結社の自由といった基本的人権を停止したり、ヒトラー政権による州政府への介入を強めたりすることで独裁基盤を強化していったのです。
1933年に発令された「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」は、ユダヤ人迫害を含むナチス・ドイツのさまざまな人権侵害の法的根拠となりました。
ワイマール共和国崩壊の歴史から学ぶこと
当時最も民主主義的とされたワイマール憲法は、その理念を守るつもりのない者が権力を手にすれば、自らの規定によって「合法的に」民主主義が破壊されてしまうという危険性をはらんでいました。
そして、ヒンデンブルク大統領とヒトラー、それぞれの思惑を抱えた政治家たちの利害が重なり合ったとき、その潜在的危険性が現実のものとなったのです。
ワイマール共和国の崩壊とヒトラー政権の誕生は、一度手にした民主主義がずっと守られる保証はどこにもないということを教えてくれます。しかも、狂気じみた極右政治家を指導者として受け入れたのは本来の主権者たる人民たち・・・
その反省に立って、「人道主義」を掲げる戦後のドイツでは、ナチス・ドイツの所業を振り返るとともに、「どうして私たちドイツ人は、ヒトラーのような独裁者を台頭させてしまったのか」という自己批判を含む徹底的な反戦教育が行われてきました。
人間は過ちを犯すもの。そして、歴史は繰り返すもの。だから、自国の犯した過ちから学ぶこと、他国の犯した過ちから学ぶことには大きな意味があるのではないでしょうか。
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