作家・樋口一葉 父の故郷の枝垂れ桜
TABIZINE還暦特派員の阿部真人です。
慈雲寺を訪れたのは開花を知った4月初めのことでした。山梨県甲州市塩山にある慈雲寺のイトザクラは、樹齢300年もの有名な枝垂れ桜です。春になると満開の桜を見ようとたくさんの観光客が遠方から押しかけます。
ここ塩山の中萩原地区は樋口一葉の両親の故郷なのです。一葉は一度もこの地を訪れたことはありません。しかしこのイトザクラが作家・樋口一葉の誕生に、大きく関わっているように思えてならないのです。
いまでは慈雲寺はきれいに整備され、周囲には菜の花が咲き誇り、観光客が大勢押しかけます。山門前にはまだ目新しい一葉の胸像や記念碑が建てられていました。境内には一葉の文学碑もあります。しかし大半の観光客のお目当ては一葉ではなく、美しい枝垂れ桜・イトザクラです。
一葉の父・則義と故郷の慈雲寺
一葉の父・則義は子ども時代、大吉と名乗っていました。生家は農業を営んでいましたが、祖父の影響もあって農作業よりも本を読み、勉強するのが大好きという子どもでした。そしてこの慈雲寺が開いた寺子屋で勉学に励み、秀才の誉れが高かったといいます。そんななか、この寺子屋でたき(子ども時代の名はあやめ)と知り合い、結婚を誓う間柄となります。
その頃イトザクラは樹齢130年ほどだったでしょう。今では老いた枝をつっかえ棒で支えていますが、当時はまだまだ桜の枝木にも勢いがあったかもしれません。
しかし則義とたきの結婚は認められませんでした。一説には地主だったたきの父が、家の格が違うと反対したようです。しかし、すでにたきのおなかには9か月の赤ちゃんがいました。則義と身重のたきは駆け落ちを選びます。故郷を捨て、江戸を目指すことにしたのです。
ちなみに則義はとても几帳面な性格で、故郷から江戸に向かう日々を記録した日記を書き残しています。そのほか各種の願書や届出書、契約書の写しなどまで残しており、こうした几帳面さや書くことが好きという遺伝子は一葉が受け継いだに違いありません。
則義はふるさと塩山出身の先輩を頼り、江戸で職を得ました。
夫婦は江戸で長女ふじを授かった後、長男泉太郎、二男虎之助、二女奈津、三女邦の5人の子どもを儲けます。このなかで明治5年生まれの二女・奈津こそ、のちの作家・樋口一葉なのです。
江戸に出て父は頑張って働きました。そのおかげで貯蓄もでき、同心株(武士の身分)を買うことができます。幕府の役人として成り上がろうと野心を持っていたように思えます。ところが不運なことに、その3か月後に大政奉還。時代は明治となったのです。それでも家族は東京となった街で、まずまずの暮らしを送ることができました。一葉が幼いころ過ごしたのは、下の写真、東京・本郷の法真寺の、隣の家でした。
一葉 思い出の「桜木の宿」
父は同心株を明治政府に買い上げてもらった後、不動産と高利貸しで金をため、明治9年4月に法真寺の隣の、土地付き建売住宅を購入したのです。
一葉は4歳になっていました。そしてそれから5年ほど、この時期が家族の唯一の平穏なひとときでした。一葉にとっても最初で最後の穏やかな時間だったかもしれません。
一葉は晩年、この家の桜についてこう記しています。「かりに桜木の宿といはばや、忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき。狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく。」
一葉の幼いころの記憶に桜の存在があったのですね。
一葉の桜と父・則義の桜がここで重なって見えるのです。故郷・慈雲寺の枝垂れ桜を思い出して、則義は大きな桜の木のあるこの家を購入したように思えます。父・則義も母・たきも、寺子屋の枝垂れ桜は思い出深かったはずです。
一葉は父と同じように幼いころから読書好きで小学校でも成績は良かったのですが、母の考えで高等科を出ても進学させてもらえませんでした。針仕事でも覚えたほうが良いというものでした。しかし則義は一葉のために中島歌子主宰の歌塾「萩の舎」を知人に紹介してもらいます。ここで一葉は文才を磨いていくことになるのです。
作家・樋口一葉の開花 そして桜の花が散るように
しかし家族の穏やかな日々は続きません。長女ふじは初婚に失敗した後再婚、素行の悪かった次男虎之助は勘当同然で家を出ます。このころから則義の運命は暗転してゆきました。
そして長男の泉太郎が明治20年肺結核で死亡。さらに父・則義は事業でだまされ失敗した直後、明治22年に多額の負債を残して失意のうちに亡くなります。
一葉17歳。借金の返済と母と妹・邦の暮らしを支えていかなければなりませんでした。
その後の一葉の人生はご存知の方も多いと思います。極貧のなか、針仕事や洗い張り(着物を解き反物の状態に戻して洗うこと)などの内職をしたりお店を出したり借金を繰り返して一家を支えます。そしてまもなく一葉は小説を書いて収入を得ようと決意、流行作家・半井桃水に師事し、小説家の道を切り開いてゆくのです。
本郷の菊坂には、一葉がお金を借りるために足しげく通った伊勢屋質店の建物(下の写真)が今も残されています。現在では土日に内部を見学することもできます。
眠る時間も削って作品を書き続ける一葉。こうして「たけくらべ」や「にごりえ」「大つごもり」「十三夜」など、一葉の生み出した作品は当時の文壇を驚かせ、世間から注目されました。
しかし明治29年、桜の花が短時間で散ってしまうように、肺結核により24歳6か月という若さで亡くなるのです。
一葉の文学に向けた思いは父親から受け継いだものだったように思えます。そして父と同じように桜の木に対する思いも強かったように思えるのです。一葉が初めて書いた小説のタイトルは「闇桜」といいました。
故郷・塩山について一葉は亡くなる前の年に書いた小説「ゆく雲」のなかで、こんなふうに描いています。「・・・我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは 天目山大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ・・・」流麗で的確な描写でした。
桜の花のように短い一生を駆け抜けた一葉。両親の故郷・慈雲寺のイトザクラを見たことも、塩山を訪れたこともありませんでした。
しかし父親からは、山々に囲まれた故郷の姿や、故郷の冬がどれほど寒いのか、そして慈雲寺のイトザクラがどれほど美しかったのか、細かい描写まで何度も何度も聞かされたに違いありません。
イトザクラは一葉の思いをいまも体現しているような、そんな気にさせられるのです。
ホームページ http://www.sky.hi-ho.ne.jp/jiunji/
バス利用 JR中央線塩山駅南口から「二本木線経由大菩薩峠登山口行」バス、「大藤小学校」下車、徒歩5分
法真寺 東京都文京区本郷5-27-11 電話03‐3813‐8241
ホームページ http://www.hoshinji.jp/
東京メトロ丸ノ内線「本郷三丁目」駅より徒歩5分
都営大江戸線「本郷三丁目」駅より徒歩5分
旧・伊勢屋質店(1860年創立) 文京区本郷5-9-4
建物所有者である跡見学園女子大学との協働で建物内部を一般公開
ホームページ http://www.atomi.ac.jp/univ/about/campus/iseya.html
都営三田線・大江戸線「春日駅」より徒歩約5分
東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園駅」より徒歩約7分
東京メトロ丸ノ内線・都営大江戸線「本郷三丁目駅」より徒歩約7分
土曜日・日曜日(年末年始、大学行事日等を除く)および11月23日(一葉忌)
12時~16時(最終入場は15時30分)