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明治時代に県の統廃合が繰り返される
日本の1道1都2府43県を分ける県境。昔から今のような区切りだったわけではなく、 現在の形になるまでに様々なトラブルがあったようです。
現在の県境のもとになっているのは、奈良時代の旧国境です。北海道と沖縄を除く66国2島に分けられ、旧国名が名付けられました。江戸時代には300近い藩によって諸国は分割統治されましたが、明治時代になると藩の力を削ぐために「廃藩置県」が行われます。これによってすべての藩は消滅し、県は統廃合を繰り返して3府302県→3府72県→3府35県と推移していきました。
廃合された県で紛争が起こり分県
このとき、地域性や県ごとの経済力、人口などが考慮されてはいましたが、財政基盤の弱い県は隣県に統合されがちで、住民は強引な政府に不満を抱いていました。特に、廃合された県の住民たちによる紛争があったため、一部で分県を認めることになりました。
紛争が起こったのは、石川・富山・福井の地域です。廃藩置県によって石川県は加賀、能登、越前、越中を包括する巨大な県になりました。しかし地域によって文化などが違うため、南部が滋賀の若狭郡とくっついて福井県となる建白書を提出。これが通ってしまったのです。
そうなると、次に不満の声を上げたのが北部の住民です。税負担の配分や土木火などの問題で加賀・能登側と越中側が激しく対立し、結果、富山県として独立することとなりました。
鳥取県の独立
明治政府が最も危慎したのは、鳥取県です。山陰地方は島根県、浜田県、鳥取県に分かれていましたが、3府35県のときに、島根県は山陰地方全範囲を統べる広大な県になっていました。東西は東京〜名古屋間に匹敵するほど広いのです。
島根県令は業務に耐えられないと辞職していますが、背景には悪化する治安問題もありました。編入に不満を抱いた旧鳥取藩士が、暴動を起こしていたのです。しかも彼らは反対運動に専念して働かなかったため、生活が困窮していました。
これを見かねて、政府は鳥取県を独立させることにしました。他県の独立には何年もかかったのに、鳥取県の独立には2カ月しかかからなかったというから、よほど目に余ったのでしょう……。
【出典】
『知れば知るほど面白い!日本地図150の秘密』(日本地理研究会編/彩図社)
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