衝撃的な仮説、卑弥呼は神だった!?
中国の歴史書として有名な『三国志』(西暦290年頃)。その中の『魏志倭人伝』で日本列島に住んでいた民族や倭人(日本人)の生活習慣やしきたり、卑弥呼について書かれています。邪馬台国の女王、卑弥呼は鬼道(きどう)によって、人々を惑わしていたと言うのです。また卑弥呼は魏に使者を送り、魏の皇帝は卑弥呼を「倭国の王」と認め、金印を贈りました。
鬼道って何? と思う方も多いでしょう。諸説ありますが、妖術や魔術などの不思議な術のことだそう。卑弥呼はシャーマンのような存在だったのでしょう。ただし、この『魏志倭人伝』はわずか2,000文字程度の記事に過ぎず、倭国の全貌は明らかになっていません。
しかし、卑弥呼の没後、約480年経ってから書かれた日本で最初の歴史書『日本書紀』や『古事記』に、卑弥呼に関する記述がないのが不思議です。中国の大国に使者を送り、皇帝から金印を贈られるほどの権力を持つ女王がいたのなら、日本の文献に記述が残っていないのは、いささかおかしい気がします。
ただ、これらの書には、卑弥呼と多くの共通点がある“存在”がいるのをご存知でしょうか? それは、なんと天照大神! 卑弥呼=神という衝撃的な説ですが、なかなかぶっ飛んでいて面白い。
・太陽(卑弥呼:太陽を司る巫女、天照大神:太陽の神)
・弟がいて、姉をサポートしていた
・日本国最古の女性統治者
・独身だった
・鏡を大事に扱っていた(卑弥呼:銅鏡、天照大神:八咫の鏡)
謎すぎる卑弥呼の人生
(画像はイメージです)
邪馬台国は西暦100年から150年頃に成立し、男性の王様が他の国と争う日々を送っていたそう。しかし、70年から80年後、卑弥呼が女王になったことで、争いが落ち着いたとのこと。その後、魏に使いを送り、卑弥呼は「倭国の王」として大国の皇帝からも認められます。ですが、平和は長続きせず、247年頃に敵対国であった狗奴国との戦が勃発。戦の決着を知ることなく、卑弥呼は亡くなったそうです。
卑弥呼はどのような一族に生まれ育ったのか・・・そして、どんな過程を経て、邪馬台国の女王になったのか、すべて謎のままなのです。邪馬台国すらどのように滅んだのかも、ハッキリとはわかっていません。
卑弥呼の生活については『魏志倭人伝』に少し記述があります。召使い1,000人が卑弥呼の世話をしていて、男性が一人だけ出入りを許され、飲食物を運んだり、卑弥呼の言葉をみんなに伝えていたそう。弟が政治を助けているが、女王になってから卑弥呼の姿を見たものは少ないとのこと。
この情報から勝手に卑弥呼の人物像を想像すると、卑弥呼はまじないや占いを得意とした身分の高い一族の出身で、国をおさめるシャーマンになり、愛人もしくはお気に入りの男性が卑弥呼の言葉を聞き、それを政治面のサポートを行っていた弟が邪馬台国の民に伝えていたのではないかと思えてきました。随分と俗物的な人物像になってしまいましたが・・・(笑)。
邪馬台国はどこにあったのか?
邪馬台国は九州北部と近畿にあったという2つの説があります。なぜ邪馬台国があったと言われているのかを出土品を参考に、以下でまとめてみました。
吉野ヶ里遺跡
長崎県壱岐市の「原の辻遺跡」などからは鉄製の武器が多く発掘されています。邪馬台国があった当時、日本には銅製の武器しかなく、鉄は大陸から運ばれてきたものでした。
佐賀県神埼郡の「吉野ヶ里遺跡」からは、魏志倭人伝に「楼観、城柵を厳かに設け」と示された邪馬台国を彷彿する遺跡が発見されました。また吉野ヶ里遺跡から発掘された環濠はこの時代の最大級のものだそうです。
【近畿説】
奈良県天理市の「黒塚遺跡」からは34枚もの銅鏡(三角縁神獣鏡)が発見されています。魏志倭人伝には、鏡についてこのように記されています。「魏は卑弥呼に銅鏡百枚を贈った」と・・・。
奈良県桜井市の「纒向遺跡」には当時のリーダー達が暮らしていたと考えられていて、日本各地で焼かれ持ち込まれた土器が発見されています。また卑弥呼の墓という説もある、最古の前方後円墳「箸墓古墳」も見つかっています。
しかし、いまだに魏の皇帝が卑弥呼に贈ったとされる金印は見つかっておらず、場所の特定には至っていません。邪馬台国は一体どこにあったのか? わからないからこそ、ロマンがありますよね。
卑弥呼について書かれた歴史書が『三国志』の中の『魏志倭人伝』のみというのが辛いところですが、これが卑弥呼に惹きつけられる理由なのかもしれませんね。また日本初の「女王」ということも影響していそうです。今後、新たな出土品が見つかったり、考古学がより発展するなどして、卑弥呼の人生や人物像、邪馬台国の場所が明らかになることを期待したいと思います。
参考文献
[いちばんやさしい 日本史の本]
[現代語訳 魏志倭人伝]
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