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青島神社にまつわる創世神話
「古事記」や「日本書紀」を紐解けば、それは男女が結ばれる物語であり、家族の歴史であり、列島各地のふるさとの成り立ちを暗示する物語だとわかります。
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青島神社は縁結びの神さまとして多くの女性たちやカップルが訪れる神社。宮崎空港でレンタカーを借り、20分ほどで青島にやってきました。電車でも宮崎駅から神社に近い青島駅まで30分ほど。交通の便はとてもいいところです。
この青島神社にまつわる創世神話は、家族の物語に思えます。「海幸彦・山幸彦神話」は仲たがいした兄弟の物語なのです。現代にも共通するテーマであり、底流にはこの地域を治めていた集団の栄枯盛衰の物語が隠されているようです。
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海岸から砂州のようになっている青島へ歩いて渡ります。まばゆい日差しを浴びる開放的な場所なので、神話の舞台としては場違いな印象です。
この青島神社がいつ創建されたのかはわかりません。平安時代に記された国司巡視記「日向土産」に青島大明神の名が記されているので1200年前にはすでにあったようです。
祀られているのは、ヒコホホデミノミコト(山幸彦、日本書記では彦火火出見尊、古事記では彦火火出見命)とトヨタマヒメ(日本書記では豊玉姫、古事記では豊玉毘売。山幸彦の妻で海神の娘)、シオツチノオキナ(塩土老翁)の3名だそうです。そして兄の海幸彦(日本書記では火闌降命、古事記では火照命)は祀られていないのです。
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「古事記」や「日本書記」に登場するのは山幸彦、そして山幸彦の妻となる豊玉姫、そして山幸彦の兄の海幸彦です。海幸彦と山幸彦は天孫降臨で天界から降りてきたニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の子どもであり、ニニギノミコトはアマテラスオオミカミ(天照大御神)の孫にあたります。
海幸彦と山幸彦のいさかい
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青島神社にお参りし「日向神話」という小冊子を購入。それを斜め読みしつつ青島を散策しました。
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物語はこういうものです。山幸彦は山での狩猟が得意で、海幸彦は海での漁が得意。ある時兄弟は道具を交換して、山幸彦は魚釣りに出掛け、兄から借りた釣針を失くしてしまいます。
兄の海幸彦は怒り、釣り針を返せと山幸彦に迫ります。困ってしまった山幸彦は、塩土老翁(シオツチノオキナ)に教えられ、小舟に乗り竜宮城のような「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」にやってきました。
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海の神ワタツミノカミに歓迎されて、娘のトヨタマヒメ(豊玉姫)と結婚します。が、3年が経ったある日、山幸彦は地上へ帰らなくてはならないと思いたちます。事情を豊玉姫に話すと、失くした釣針と、霊力のある玉をもらいうけました。そして地上に戻り、その玉の霊力を使って兄の海幸彦を懲らしめ、忠誠を誓わせたというストーリーなのだそうです。
そして宮崎の海岸に浮かぶ青島は、山幸彦が陸上に戻ったときに住んだ土地と伝えられています。上の写真は青島中央にある「元宮」。古代ここで祭祀が行われたと考えられています。
大和朝廷と熊襲の戦い
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ちょっと意地悪をした兄の海幸彦が「古事記」や「日本書記」では悪人として成敗され、弟の山幸彦が実権を握ります。ちょっと不思議なのですが、なぜなのでしょう。
実はこの物語は、中央の大和朝廷と対立する九州南部を治めていた集団・熊襲(クマソ)との闘い、そして熊襲の服従を描いたものだともいわれています。山幸彦が大和朝廷を意味し、海幸彦が熊襲です。「古事記」や「日本書紀」は大和朝廷が残した記録ですから、大和朝廷が正しく、そして地域の敵を諫め服従させるという構図で描かれるのです。
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南九州に住んでいた集団「熊襲」。「熊」は球磨(熊本県人吉地方)「襲」は贈於(鹿児島県曽於地方)を表し、熊襲の居住地と考えられているそうです。「古事記」や「日本書記」では、熊襲は朝廷に服従せず、礼儀を知らない集団とされました。
「日本書紀」によれば、景行天皇12年、まず天皇自ら熊襲を征討、さらにヤマトタケルノミコト(日本武尊)が征討したといいます。敵の大将はクマソタケル。ヤマトタケルがクマソタケルの新居落成の祝宴に童女を装い、クマソタケルを刺殺したという伝説も残されているそうです。
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青島は、古くから霊域とされ江戸時代まで一般人の上陸は許されませんでした。旧暦3月16日から3月末日までに限って、その後江戸時代半ばの1737年からはほかの地域の人びとも上陸が許されたといいます。
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文化的な価値があるというだけでなく、貴重な自然が豊かに残る島でもあります。神社だけでなく周囲の杜や海の岩も見ごたえがあります。上の写真の「青島の隆起海床と奇形波蝕痕」が国の天然記念物に、また「青島亜熱帯性植物群落」が特別天然記念物に指定されています。周囲860mほどの島なので散策にぴったりです。
Beautiful Miyazaki「青島・堀切峠」(C)宮崎県観光協会
トヨタマヒメの出産場所だった鵜戸神宮
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そしてもうひとつの鵜戸神宮。国の名勝に指定された風光明媚な社と海岸が広がります。縁結び、そして安産や育児のご利益があるとして、こちらもたくさんの女性やカップルが訪れます。
場所は青島から車で南に30分ほど走った海岸。電車では近くに駅はありません。バスでは宮崎駅から1時間30分ほどで、また青島の停留所からは40分ほどで鵜戸神宮に着きます。本数は1時間に1〜2本で時刻表を確認する必要があります。
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参道を歩き、階段を下って太平洋に突き出した鵜戸崎岬突端。その洞窟に、朱塗りの色鮮やかな本殿があります。
鵜戸神宮の社伝によれば、本殿のある岩窟は、山幸彦が陸上に戻った後、豊玉姫が出産するために建てた産屋だといわれており、豊玉姫の孫が初代天皇の神武天皇となります。
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ちなみに豊玉姫は海の神さまの娘ですが、本当の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)、つまり海の怪物だともいうのです。
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上の写真は洞窟入口の本殿をぐるりと裏に回った内部です。出産に際して、豊玉姫は夫である山幸彦に出産の様子を見ないよう告げますが、山幸彦はこっそり盗み見てしまいます。気が付いた豊玉姫は怒り、生まれた子を草に包んで残し、海に帰ってしまったといいます。
このパターンは昔話「鶴の恩返し」にもありましたね。これは「見るなのタブー」といわれるもので、不思議なことに日本神話を始め、ヘブライ神話、ギリシア神話など多くの神話に共通してみられる物語だそうです。
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産屋の屋根は全て鸕鶿(う、鵜)の羽を草(かや)としてふこうとしますが、頂上部分がふき合わないうちに赤ん坊が生まれ、草(かや)につつまれ波瀲(なぎさ)に捨てられたそうです。そのため赤ん坊の名前は、ちょっと長いのですが、ヒコナギサタケウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草葺不合)と呼ばれ、この社に鵜戸という名がついたといいます。
そして、このヒコナギサタケウガヤフキアエズこそ、鵜戸神宮の主祭神なのです。
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洞窟の中には、豊玉姫が息子を心配して、自分の乳房を岩につけたとされる「お乳岩」があります。上の写真です。今も岩清水が滴り続けています。安産祈願や夫婦円満の願いで訪れる女性や夫婦も多い人気の景勝地なのです。
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いずれにしても、豊玉姫は山幸彦と結ばれ、ひとりの子どもヒコナギサタケウガヤフキアエズを授かります。そしてヒコナギサタケウガヤフキアエズは成長し、4人の子どもをもうけたといいます。
そのうちの末っ子はカムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命)と名乗りました。後に彼は東に向かい(東征)日本全土を平定し、初代の天皇として「神武天皇」となったというのです。
Beautiful Miyazaki「鵜戸神宮・串間」(C)宮崎県観光協会
なぜ国造りの始まりが宮崎だったのか、そして青島や鵜戸だったのか、未来永劫の謎でしょうね。とはいえ個人的には、朝廷をはじめとして中央の人々にとって見知らぬ遠い土地であればあるほど、壮大な物語は魅力を増して、人々を引き付けたように思えます。こうして何世代にも渡る家族の壮大な物語は、1300年ものあいだ語り継がれてきたのですね。
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余談ですが、戦後の新婚旅行ブームで宮崎の海岸が大人気となりました。交通の便もいい場所です。この山幸彦と豊玉姫の物語がきっかけかしらと思ったのですが、実は昭和天皇の第五皇女の島津貴子様が新婚旅行で宮崎を訪問。その後、当時の皇太子夫妻が南九州を旅行された際にも宮崎に立ち寄られたことで全国的に注目され、地元宮崎のバス会社が仕掛けたブームだったとのこと。たいした戦略でした。