(C)霧島ホテル
龍馬夫妻が20日間も滞在した塩浸温泉
坂本龍馬は天保6年(1836年)土佐藩(高知県)に生まれ、激動の幕末を駆け抜けた志士です。31歳の短い生涯とはいえ、その彼が3カ月近くものあいだ鹿児島でハネムーンを楽しんでいました。
(C)Masato Abe
龍馬の鹿児島への旅は日本人で初めての新婚旅行といわれています。結婚しても夫婦で旅を楽しむこともなかった時代。土佐に住む姉・乙女さんに宛てた手紙で旅の出来事を楽しそうに伝えています。
新婚旅行は彼が亡くなる1年半ほど前、慶応2年(1866年)4月から7月(新暦、以下全て新暦)のことで、龍馬とお龍(りょう)は大坂から蒸気船に乗り込み、長崎を経て4月24日に鹿児島に到着。それから、日当山・塩浸・栄之尾を経て高千穂峰に登っています。
(C)Masato Abe
霧島の塩浸(しおひたし)温泉は山あいにありながら、現在では鹿児島空港からとても近いところにあります。車で20分ほどでしょうか。龍馬はここに2回、計20日間も滞在しました。
(C)Masato Abe
江戸末期から明治のころはたいへんにぎわったようです。今では温泉宿はありません。現在は塩浸温泉龍馬公園として整備され、日帰り入浴施設と龍馬資料館があります。龍馬も入浴したといわれる露天風呂の痕跡が川沿いに残されていました。
もちろん刀傷の治療が大きな目的だったのでしょうが、幕府方から逃れるためでもありました。毎晩のように同宿の見知らぬ人びとと楽しく酒を酌み交わしている龍馬の姿をつい想像してしまいました。
(C)Masato Abe
広場には龍馬とお龍の銅像が立っています。
お龍さんは本名を楢崎龍といい、天保12年(1841年)京都生まれで、父親は公家に仕える医者でしたが幕末の動乱で病死。家族は困窮して七条新地の旅館「扇岩」で働いていたそうです。母親が土佐藩出身の尊攘派の志士たちの隠れ家で賄いをしていた元治元年(1864年)頃に、どうやら龍馬と出会ったらしいのです。
(C)Masato Abe
龍馬資料館には、鹿児島での新婚旅行をはじめ、たくさんの展示がありました。
ふたりは名前の「龍」の字が同じだとわかって親しくなったようで、慶応2年(1866年)3月9日に寺田屋で幕府方に襲われて負傷した直後の3月28日、中岡慎太郎の仲人でお龍との結婚を正式に披露。ちなみに寺田屋で龍馬が襲われたとき、お龍の機転で龍馬はいち早く危機を知ることができました。
そうして4月14日にお龍との旅に出たのです。
(C)Masato Abe
この塩浸温泉の泉質は炭酸水素塩泉。江戸時代に発見され、切り傷や胃腸病に効能があるといいます。レトロな日帰り施設には大きな内湯がありました。鉄分の色でしょうか、かなり黄土色がかっていて塩っぽいのです。緑豊かな森のなか、効き目のありそうな濃厚な温泉で、龍馬の傷も早々に癒えたに違いありません。
住所:鹿児島県霧島市牧園町宿窪田3606
電話:0995-76-0007
営業時間:9:00~18:00
定休日:月曜
料金:入浴料380円 資料館200円
HP:https://www.kagoshima-kankou.com/guide/50892/
妻のお龍も登った高千穂峰
(C)Masato Abe
龍馬とお龍は塩浸温泉に滞在した後、近くの妙見温泉や栄之尾温泉、そして硫黄谷温泉(霧島温泉)などの温泉巡りをしたようです。そして5月13日にふたりで高千穂峰に登りました。龍馬の念願だったといいます。
(C)Masato Abe
上の写真の鳥居の向こう左側が高千穂峰です。標高1,574m。創世神話では天孫降臨の地ともいわれ、高千穂峰の山頂には国造りをするために使った剣「天の逆鉾(さかほこ)」が、一説には奈良時代から建てられています。
(C)Masato Abe
この高千穂峰周辺の山々は霧島山と呼ばれる日本百名山のひとつ。個人的にもぜひ登りたかった山です。
(C)Masato Abe
登り始めは火山灰の滑りやすい登山道で、やがて溶岩流が固まったでこぼこの斜面となります。距離はそれほど長くありませんが、歩きづらいかもしれません。
龍馬は「男でも登りにくく、とても危険。焼け石はさらさらで、少し泣きそうになります。5丁(約550メートル)も登ればわらじが切れます」と姉への手紙に書いています。
(C)Masato Abe
斜面を登りきると右手に見えるのはカルデラ火口で、周囲の尾根道は「馬の背」と呼ばれています。
この馬の背越えで龍馬の手紙には「左右目が届かぬくらい下がかすんでいます。あまり危なかしいので、お龍の手を引いてやりました」とあります。
(C)Masato Abe
たしかにカルデラ脇の道は幅が狭いので、強風や濃霧のときは注意を払う必要があります。とはいえ、冗談を言いながら楽しんで歩く龍馬の姿を想像してしまいました。
(C)Masato Abe
馬の背を過ぎるといったん下ります。そしてその向こうに高千穂峰がそびえているのです。下った場所に小さな鳥居と祠がありました。霧島神宮が最初にあった場所、元宮跡です。
(C)Masato Abe
現在、霧島神宮はこの高千穂峰からずっと下の麓にあります。創世神話の主人公・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀った社ですが、当初はこの場所にあったといいます。しかし、788年の噴火によって流されてしまったそうです。
(C)Masato Abe
1時間半ほどで、ついに山頂に到着です。おお、向こうに鉾が見えるではありませんか。一目この目で見て見たかった逆鉾です。
(C)Masato Abe
周囲を柵で囲まれているので、近づくことはできません。実は龍馬は姉に送った手紙に、冗談半分にこの鉾を抜いてしまったと記しています。たぶん、龍馬の真似をして鉾を抜いてしまわないようにと柵を作ったのではないかと想像するのです。
一説には奈良時代に建てられたともいう「天の逆鉾」。のちの火山噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカといいます。
(C)Masato Abe
とても気持ちのいい天気で、遠くに韓国岳と噴火を続ける新燃岳がよく見えました。龍馬とお龍も見たであろう絶景で、気分爽快でした。
ちなみに龍馬とお龍の登山の弁当は、小松帯刀(薩摩藩家老)からもらったカステラだったそうです。
住所:鹿児島県霧島市霧島田口2583-12
電話:0995-57-2505
HP:http://www4.synapse.ne.jp/visitor/tozantakatiho.html
静寂な緑の木立ちに包まれた霧島神宮
(C)Masato Abe
霧島神宮は創建が6世紀とされる由緒ある神社です。高千穂峰の噴火によって消失と再建を繰り返し、高千穂峰の直下から500年以上前にこの場所に移されました。現在の社殿は第4代薩摩藩主の島津吉貴が、1715年に建立寄進したもので、龍馬も訪れています。
(C)Masato Abe
龍馬はここで樹齢800年というご神木の大杉を見たことも記しています。写真の右側にある大木。高さ38mの「霧島杉」といい、南九州にある杉の祖先ともいわれているそうです。周囲は緑濃い森に包まれて、気持ちの良い空気に満ちていました。
住所:鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
電話:0995-57-0001
受付時間:8:00~17:30(授与所)
料金:入場、参拝無料
HP:https://kirishimajingu.or.jp/
かつての硫黄谷温泉 いまは巨大温泉リゾート
(C)Masato Abe
高千穂峰に登った翌日の5月14日、龍馬は当時硫黄谷温泉・霧島館と呼ばれていた霧島ホテルに宿泊したようです。まさに硫黄谷という名前の通り、近くの谷から白い噴気が上がり、硫黄の匂いが立ち込めていました。
(C)Masato Abe
いまでは巨大なリゾートホテルとなった霧島ホテル。もともとここでは江戸時代、温泉よりも硫黄の採掘が重要視されていました。幕末のころ、硫黄採掘の親方をしていた堀切武右衛門という人物が作業員の宿舎および休息所にあてるため湯治宿「霧島館」を買い取ったといい、それが霧島ホテルの始まりだそうです。
(C)Masato Abe
いま霧島ホテルは多彩な泉質の源泉と巨大な庭園大浴場で知られています。そして館内では龍馬とお龍の写真や関係する品々もあちこちに展示されていました。
龍馬が投宿した当時、武右衛門は薩摩軍鶏(しゃも)を使った“薩摩料理”で龍馬とお龍を歓待したともいいます。龍馬は軍鶏鍋が大好物で、たしか亡くなる当日も軍鶏鍋を食べようとしていたはずです。
(C)霧島ホテル
さてさて霧島ホテルの大注目は、豊富な湯量を持つ14の源泉からかけ流しの「硫黄谷庭園大浴場」。広々とした、まさに庭園のような大浴場で迫力があります。ワクワクしますね。
女性ゾーンでは、美白の湯や不老の湯、子宝の湯、うたせ湯などさまざまな湯めぐりも楽しめます。
(C)霧島ホテル
しかも、ひとつの浴場で4種類もの泉質も味わえるのです。慢性皮膚病や婦人病、糖尿病、動脈硬化に効能があるとされる硫黄泉、神経痛や疲労回復などに効能がある明礬泉、冷え性に効能がある塩化物泉、関節痛や冷え性に効能がある鉄泉です。個人的にはサッパリとした明礬泉が気に入りました。
(C)霧島ホテル
もちろん露天風呂もあります。ちなみに庭園大浴場は女性専用ゾーン・男性専用ゾーン、フリーゾーンに分かれていて、フリーゾーンは混浴となっています。
とはいえ、すべて女性専用となる時間もあり、20時~21時30分がレディース・タイムとなりますので存分に楽しんでください。
(C)Masato Abe
夕食は懐石風の料理。こちらは軍鶏鍋ではなく、鹿児島名産の黒豚鍋でした。地元鹿児島の食材や旬の食材を使った薩摩料理、おいしくいただきました。
(C)Masato Abe
ハネムーンから帰ると、龍馬はふたたび幕末の怒涛のなかに飛び込み、1年余り後に暗殺されることになります。
一方のお龍は、その後苦労の連続だったようです。亡くなった直後は土佐の龍馬の実家に行きますが、折り合いが悪かったようで3カ月で実家を出て、京都、東京に転居。その後、神奈川宿で西村松兵衛という大道商人と再婚し、横須賀に暮らしました。そして明治39年(1906年)66歳で没。お墓は横須賀市の信楽寺にあります。