日本で初めて復活した旧町名
主計町の様子
金沢には色気のある地名が多いですが、残念ながら時代の流れとともに、失われてしまった旧町名もたくさんあります。
そんな失われた歴史と文化を復活させようという機運が高まり、全国で初めて金沢は旧町名を復活させた場所でもあります。その復活した旧町名の第1号が、
- 主計町
となります。なんと読むのでしょうか?もともとその土地に住んでいた有力者の名前からとられています。思わず「しゅけいまち」と読みたくなりますが、答えは「かずえまち」。金沢に3つ現存する茶屋街の1つがある、浅野川沿いの一角ですね。浅野川大橋のたもとに、川に沿って町内が続いています。
この地名は、大坂夏の陣・冬の陣で活躍した加賀藩士である富田主計(とだかずえ)の名前から付けられています。その富田の邸地がこの場所に存在したのですね。
先ほども書いた通り、この地名は1999年(平成11年)、全国で初めて復活した旧町名の第1号です。その取り組みは1979年(昭和54年)からスタートしていて、実に20年越しで実現した形となります。確かにそれだけの努力を払いたくなる、色気のある地名ですね。
人名に由来する地名
彦三周辺のまち並み
由来が人名から来ている難読の地名もあります。例えば、
- 彦三
- 香林坊
です。彦三は「ひこぞう」と読みたくなりますが、「ひこそ」と読む地名です。彦三町は観光名所である近江町市場の近く、いわばまちの中心に位置する町名です。加賀藩の重臣であった不破彦三とその一族が暮らしていた場所だと知られています。
香林坊は金沢のど真ん中にある繁華街の地名なので、金沢市に生まれた、あるいは長く暮らす人であれば、読めない地元民はいません。
この地名は、もともと比叡山の僧侶の名前で、この土地に住む町人の家に婿入りしたところから、歴史がスタートするみたいですね。僧の香林坊は目薬を調合し、加賀藩の藩主である前田利家に献上しています。
その子孫が代々暮らし、家のあった場所が、現在の金沢のど真ん中にある「こうりんぼう」になります。
中国の歴史書にあった言葉から生まれた町名も
金沢港に停泊中の船からの眺め ※写真はイメージです
人名に由来を持つ地名が続きましたが、故事から生まれた地名もあります。
- 金石
なんと読むかわかりますか?恐らくほどんとの人が「かないし」「かねいし」と読むと思いますが、読み方は「かないわ」。歴史書『漢書』の中にある列伝(韓信伝)では、硬く破れない友情を金石(きんせき)の交(こう)と表現しており、江戸時代に大野町と宮腰町が合併した際、硬い交わりを願って金石(かないわ)と名付けられたのですね。
ちなみに金石とは金沢港の近く、つまり海辺にある地名になります。金石は地元の小学校や公園、お店の名前など、さまざまな場所で使われています。
職業に関係した地名
犀川の様子 ※写真はイメージです
次は職業に関係した地名を紹介します。
- 地黄煎町
いかがでしょうか。地黄煎町は意外に当てずっぽうで読んでも、正解できるかもしれません。「じおうせんまち」が正解ですね。
地黄煎町は逆に、何の職業を意味しているかわかりますか? 地黄煎とは実は辞書にもきちんと載っている言葉で、
<地黄の汁を加えてねった飴>(岩波書店『広辞苑』より引用)
とあります。地黄とはゴマノハグサ科の多年草で、その根が薬になったり、その生薬を混ぜたあめになったりするのですね。地黄煎町とは、あめ薬を売る人が住んだまちだったのだとか。
この地黄煎町、今は存在しません。旧町名で今は泉野町、泉が丘などに変わってしまっているのですが、その地名が残っている場所があります。泉が丘通を寺町寺院群から南下すると、その通り沿いに出てくる地黄八幡神社です。金沢市立泉野図書館のほぼ隣にある神社で、明治時代は地黄煎八幡神社と名乗っていた歴史もあります。
読み方はもちろん「じおうはちまん」ですね。社記によれば、1600年前後に建てられた神社みたいですよ。
地黄八幡神社
以上、金沢の難読地名を紹介しましたが、いかがでしたか?個人的に好きな地名は、もはや存在していないですが、旧町名で百々女木町です。読み方は「どどめきちょう」で、川の流れの勢いをそのまま表した地名なのだとか。なんだか味わい深いですよね。
[参考]
※ 旧町名~現在の町名一覧 – 金沢市
※ 「伝統と革新の町・金沢を歩き解く!金沢謎解き街歩き」(能登印刷出版部著・実業之日本社)
※ 「石川県大百科事典」(北國新聞社)
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