写真提供:(公財)名古屋観光コンベンションビューロー
ポイント1:名古屋城の歴史
現在、名古屋城が建つ場所には、室町時代から那古野(なごや)城と呼ばれる城が建っていました。城主は今川氏から織田氏へと代わり、その後に廃城。徳川家康は天下統一のため、再びこの地に城を建てる決意をします。
1600年の関ヶ原の戦いにより、豊臣家に勝利した徳川家ですが、当時、大坂には秀吉の子である秀頼が城を構えており、家康は秀頼や豊臣家の家臣を牽制するために、尾張の守りを重視。いずれ豊臣家と戦う日に備えて、大坂と江戸を結ぶ東海道の中間点に位置する尾張に、防衛となる砦を築く必要があったのです。
そのため、名古屋城は巨大な軍事要塞としての役割も持って築城されました。
ポイント2:攻撃されにくいシンプルな「縄張」
名古屋城の堀
城などの設計や実際に測量して区割りすることを「縄張」といいますが、戦国時代の城の縄張と比較すると、名古屋城はシンプルながらも敵が入りにくい縄張になっていることがわかります。本丸の南と東に馬出を設置。これらと本丸を囲む二之丸、西之丸、御深井丸は堀で仕切って独立させ、それぞれの間は、本丸内堀に接する幅の狭い土橋で連結させました。
これにより、土橋を渡ろうとする敵を本丸内から攻撃可能に。また、ひとつの曲輪(くるわ)※が陥落しても、ほかの曲輪は独立しているため、敵に侵入されにくいのです。このような構造により、強固な防衛を誇る名古屋城となりました。
※「曲輪(くるわ)」とは、城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲いのこと
ポイント3:名古屋の街の原型は400年前に家康によってつくられた
名古屋城を築き、城下に碁盤割の町をつくった家康は、尾張の中心だった清須の町ごと名古屋へ引っ越す「清須越」(きよすごし)を行いました。1610年に清須越が始まり、築城関係者、武士、刀や鉄砲の職人たちなど約60,000の人と約100の寺社、67の町がすべて名古屋へ引っ越し。1613年に武士や町人の住居が定まりました。
現在の名古屋に残る、本町通、広小路、四間道といった通りは、このときに整備されたものだそうです。ですから、名古屋の街の原型は400年前に家康によってつくられたといえます。
ポイント4:なぜ天守閣を木造で復元することになったのか?
実測図などの史料が残っている名古屋城は忠実な復元が可能だといわれています。そのため、名古屋城の価値や魅力をより多くの人に広く知ってもらいたいという思いから、天守閣の木造復元を決定。現在進行形で計画が進められています。
しかし、河村たかし市長が2009年に打ち出した名古屋城の天守閣の木造復元事業は、市議会の反対や文化庁からの追加調査要請により、大幅に遅延。2020年の完成を目指していましたが、バリアフリーの確保などにより、2022年末までに全体計画の策定計画を文化庁に提出する予定だとか。
名古屋城本丸御殿 上洛殿一之間 写真提供:(公財)名古屋観光コンベンションビューロー
いつ完成するのか読めない木造建築の天守閣……。ですが、2009年に可能なかぎり創建当初と同じ材料と工法を使って木造復元工事がスタートした「本丸御殿」は2018年に完成しました。戦時中は取り外して保管していた障壁画のほか、煌びやかな欄間や飾り金具を職人たちの巧みな技により再現。息を呑む美しさです。
ポイント5:具体的にどんな史料が残っているのか?
江戸時代に何度も修理・改築が行われた名古屋城ですが、1842年から1902年まで尾張藩士・奥村得義(かつよし) とその養子・定(さだめ)が執筆・編集した名古屋城の百科事典『金城温古録』(きんじょうおんころく)が全10編64巻、残っています。これには、建物の間取りや柱の位置が記録されており、空襲で焼失した名古屋城の内部まで知ることができます。
また、江戸時代後期、日本には西洋から写真技術が伝わり、当時の14代藩主だった徳川慶勝(よしかつ)がカメラを使って自ら名古屋城をさまざまな場所から撮影。残念ながら明治維新により、残っている古写真は29枚ですが、明治時期後からは多くの写真が撮影され、焼失前の1940〜1941年に撮影されたガラス乾板(かんぱん)写真は、700枚以上現存します。
さらに、1932年に名古屋市は国宝建造物の細部の計測や拓本作成を実施。天守閣の図面71枚を含む清書図282枚、拓本貼付27枚、計309枚の図面を作成しました。
これらの豊富な資料に基づいて、天守閣の木造復元が進められています。
江戸城は明暦の大火により、大坂城は落雷により天守が焼失。どちらもその後、復元されていません。名古屋城の天守閣が復元した姿を見るのが、今から楽しみですね! 名古屋城の歴史を知ってから木造復元された本丸御殿と天守閣を眺めることで、より感慨深い気持ちになれるかもしれません。