Pierre Jean Durieu / Shutterstock.com
江戸三大祭にして日本三大祭
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東京の西部に暮らしていると、あるいは古くから東京に居る人ではないと、「神田祭」と言われてもピンと来ないかもしれません。しかし、江戸三大祭と言えば、神田明神の神田祭、日枝神社の山王祭、鶴岡八幡宮の例祭(深川八幡祭り)です。
「神輿(みこし)深川、山車(だし)神田、だだっ広いが山王様」
といった言葉もあったようで、いずれも東京を代表する祭りとして今も親しまれています。
このうち、日本三大祭の1つと言われる祭りが「神田祭」です(日本三大祭を山王祭も主張しています)。
神田明神とは、千代田区外神田にある神社です。あのかいわいに盛んに出掛ける人や、あるいは周囲で働く人であれば、祭りの時のにぎわいを肌で体感しているはず。
秋葉原の中心部(中央通りなど)もみこしの巡回コース(神幸祭の巡行路)に入っているので、アニメやマンガ、オタク文化を愛好する人も「ああ、あれか」と思うかもしれません。
神田祭は天下祭り
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この神田祭は何がすごいのでしょう? 江戸三大祭に挙げられた先ほどの山王祭と同じく、神田祭は天下祭りです。
「天下祭りって何?」
と思うかもしれません。この場合の「天下」とは江戸時代の徳川家の天下で、旧暦の9月15日(新暦の10月半ば)に行われた祭りでは、庶民が江戸城内に山車やみこしを入れられたのですね。
江戸時代は完全な身分社会です。その世の中で、江戸城内に入り込める上に、将軍に直接観てもらえるとあって、江戸っ子は大いに粋がりました。その結果、山車やみこしの装飾が派手になっていきます。
一方で、赤坂にある日枝神社の山王祭も天下祭りでした。神田祭と山王祭は次第に競い合うようになり、歯止めが利かなくなったので、1681年(天和元年)に町民の負担を軽くするべく、1年おきに神田祭と山王祭が交代で祭りをするようになりました。
その名残は今も続きます。神田明神は1年ごとに本祭りと陰(かげ)祭りを開催し、神田祭が陰祭りの際には山王祭の方が盛大になるのですね。
具体的には、西暦の奇数年(丑・卯・巳・未・酉・亥の年)に神田明神で本祭りとなります。
壮観な山車が自慢であり特長だった
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この神田祭は明治以降も変化を遂げていきます。まず、1892年(明治25年)に台風被害の影響で日程が春に変わりました。新暦の5月15日前後が神田祭となりました。
また、江戸時代末期に36基も引き回されたと言われる山車も姿を消していきます。
1884年(明治17年)には46基、1887年(明治20年)には40基など、山車が復活した時期もあったようですが、不景気があり電線架線があり、山車が引き回されるのではなく、各町に備え付けられるだけになります。
さらに、大正時代に入り関東大震災で壊滅的な被害を受けた経緯もあって、みこしが中心(神輿渡御祭)となります。
その流れを受けて現代の神田祭では、だいこく様・えびす様・まさかど様(平将門)の三柱の御霊を入れた大小200程度のみこしが、江戸っ子たちの掛け声とともに巡行します。
しかし歴史を振り返ってみると、「神輿(みこし)深川、山車(だし)神田、だだっ広いが山王様」と言われたように、壮観な山車がもともとは自慢であり特長だったのですね。
将軍に自分を見てもらえる晴れの舞台
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さらに現代は、神輿渡御祭(みこしとぎょさい)が神幸祭(しんこうさい)の呼び名になって、日程の制限も受けるようになりました。
都心部における自動車など交通事情を考え、神田や大手町、丸の内、日本橋など東京のど真ん中の主要道路を占拠する大掛かりな巡行=神幸祭(しんこうさい)も今は1日と限られています。
それでも、江戸時代から続く大きな祭りに、例えば秋葉原の街が封鎖され、路上(中央通り)が大勢の人でごったがえす光景は独特の迫力があります。
まがりなりにも「近代国家」である日本が、超越的な存在の神様を乗せたみこしの巡行に対して、首都の大道路を開放する事実は、やはり特別な気がしますよね。
江戸の三大祭であり、日本三大祭の1つとも言われる神田祭のにぎやかさ、威勢の良さは、歌舞伎にもなっています。
ちなみに、2022年(令和4年)は偶数の年なので陰祭です。東京ではなく遠方に暮らしている人は、来年を目掛けて今から予定を組んでおくといいかもしれませんね。
[参考]
※ 神田祭特設サイト
※ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
※ 精選版 日本国語大辞典
※ ブリタニカ国際大百科事典