加賀・越中で起きた大一揆
金沢の観光地と言えば、ひがし茶屋街があげられます。茶屋街のメインストリートの写真は、多くの人が目にしたことがあるのではないでしょうか。
そのメインストリートを抜けて茶屋街の裏手・卯辰山の方へ向かうと、浄土宗の寿経寺というお寺があり、このお寺の前には7体のお地蔵様が安置されています。
大正時代に出版された和田文次郎『金沢墓誌』(加越能史談会)を読むと、この寿経寺にある能美屋佐吉の墓について書かれています。
能美屋佐吉は、お寺の前に安置された7体のお地蔵様の1つのモデルとされています。地元の綿津屋政右衛門という人が能美屋佐吉などの最期を哀れんで、稲を抱いたお地蔵様として安置したのだとか。
写真提供:寿経寺(金沢市観光公式サイト『金沢旅物語』より)
どうして、能美屋佐吉はお地蔵様として死後に祭られたのでしょう。その理由は、幕末の1858年(安政5年)の出来事にさかのぼります。
ペリーが来航してから5年後、尊王攘夷運動をたたきつぶすために起きた弾圧事件=安政の大獄と同じ年に、加賀・越中では安政の大一揆が起こりました。
加賀の金沢でも起きた一揆で、首謀者としての役割を能美屋佐吉は果たした人なのですね。
「ひもじい」「食えん」と城下に向かって叫んだ
安政の大一揆が北陸で起きた1858年(安政5年)は、特別に凶作の年ではなかったみたいです。1841年(天保12年)から米の値段は緩やかに上がり始めていて、1856年(安政3年)以降には急激に上がっていました。
写真提供:金沢市
その状況に加えて、1858年(安政5年)は梅雨ごろから長雨が続きました。凶作になるだろうとの見込みが生まれ、米の商人が投機的な買い占めを始めます。
さらに、加賀藩領から他国へ米の回送が増えたのに対し、越中からの米の海上輸送が風周りの影響で少なくなりました。いわば、加賀藩が政策上の判断を誤ったわけです。
しかも、長雨が終わらない現状を見て、民衆の間にでたらめなうわさ話が広がりました。(現在の)富山県南砺市にある山中の天然湖・縄ヶ池に誰かが金物を投げ入れたために、山神のたたりが起きていると言われ始めたのですね。
これらの要素が重なり、越中・加賀の市中で米が手に入らなくなると、生活に困った人たちによって、同年6月3日・4日に打ち壊しの一揆が越中国で発生しました。
その一揆が引き金となり、打ち壊しや騒ぎが加賀・越中で次々と起こります。1858年(安政5年)7月11日には、加賀国・金沢の卯辰山の山頂から約2,000人が「泣き一揆」を起こしました。
「ひもじい」「食えん」と城下に向かって叫び、生活難を直訴すると、卯辰山の山頂から1.7km離れた金沢城へ、その声が届いたと言います。この首謀者の1人が先ほどの能美屋佐吉です。
当時、庶民の立ち入りが卯辰山は禁止されていました。7人の首謀者のうち5人は処刑され、残りの2人は獄死しました。
加賀藩の権力によって個別撃破された
論文『安政大災害(1858)における加賀藩の災害情報と被災対応』を読むと、幕末のこのころは世直しの兆しが至る所に見られたと分かります。幕末期の加賀藩は、安政の大一揆によって根底から動揺させられたのだとか。
しかし、安政の大一揆は組織化され、計算された反乱ではありません。民衆がそれぞれの判断に基づき散発的に一揆を起こすだけで、孤立分散していたため、加賀藩の権力によって個別撃破されました。
7月11日に2,000人、12日に500人が卯辰山頂から生活難を直訴したものの制圧され、首謀者は処刑されます。
これら一連の出来事を受けて、地元の綿津屋政右衛門という人が、泣き一揆の首謀者たちを、稲を抱いたお地蔵様として安置しました。
『よく分かる 金沢検定 受験参考書』(時鐘舎)によると、卯辰山の入り口に最初は安置され、寿経寺の地蔵堂に後に移されます。
地元の人には七稲地蔵と呼ばれ、令和の今でも大切に安置されています。毎年8月26日には七稲地蔵尊例祭が行われるそう。
ミステリーでもなく怪談話でもありませんが、金沢に訪れてひがし茶屋街へ行ったら、寿経寺の七稲地蔵にもぜひ訪れてみてください。
これらの歴史を知ってから見ると、また違った味わいを感じられるはずですよ。
[参考]
※ 和田文次郎『金沢墓誌』(加越能史談会)
※ 「安政大災害(1858)における加賀藩の災害情報と被災対応」
※ 縄ヶ池
※ 【歴史】安政の泣き一揆を象徴する「七稲地蔵」 – いいじ金沢
※ 加賀藩改作法体制の崩壊過程