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【日本三大遊郭】江戸「吉原」・京都「島原」・もう1カ所は?歴史や現在の様子も紹介

Posted by: あやみ
掲載日: Apr 28th, 2024.

「遊郭」とは、平安時代から鎌倉時代にかけて発達した遊女屋を、江戸時代に幕府が都市政策の一環として集め、公認した特定地域のことです。そのため、江戸時代には芝居と並ぶ娯楽になりました。今回は、日本三大遊郭に数えられる「江戸吉原」「京都島原」「大坂新町」の歴史や特徴、現在の様子についてご紹介します。

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遊郭のイメージ
※画像はイメージです


最盛期の遊女は3,000人!江戸文化の中心地でもあった「江戸吉原」

花魁道中
©️Alex Spatter / Shutterstock.com

1617年、庄司仁右衛門(しょうじじんえもん)という遊女屋の主人が江戸幕府から許可を得て、日本橋葺屋町の東側に開設したのが「江戸吉原」のはじまりです。

そして、1656年に移転を命じられ、翌年に起こった「明暦の大火」の後、浅草千束村へ移りました。そのため、日本橋葺屋町の遊郭を「元吉原」、移転後の遊郭を「新吉原」と呼びます。この2つをあわせて「吉原」といいます。移転後の最盛期には3,000人にもおよぶ遊女がいたそうです。

「江戸吉原」の経済基盤となったのは売春です。江戸吉原で働いていた遊女たちは、好きで売春を行なっていたのではなく、その多くが家族のためにした借金を返済をするためでした。遊女たちは原則、借金を返済しない限り、江戸吉原を出ることは許されなかったのです。

遊女の脱走を防ぐため、江戸吉原周囲には「御歯黒溝(おはぐろどぶ)」と呼ばれる堀が巡り、出入り口は「大門」の1カ所だけでした。

現代では人身売買や人権侵害に当たる絶対に許されない行為ですが、江戸時代には人権という概念がなかったのです。

しかし一方で、約250年続いた江戸吉原は流行の発信地でもありました。春の「桜」や夏の「俄(にかわ)」といった季節ごとのイベントを開催したり、洗練された教養や磨き上げた芸事で客をもてなしたりしており、音曲・浮世絵・歌舞伎・文学といった江戸文化の発展に寄与したのです。

そのような華やかな世界だった江戸吉原は、多くの江戸庶民から親しまれていたほか、地方に住む人たちも物見遊山に訪れました。

ですが、明治時代以降、日本各地の花柳街の発展に伴い衰退。1946年の公娼廃止により赤線地帯となり、1958年の売春防止法の施行で一斉に廃業しました。

そんな江戸吉原の名残が感じられるのが、東京都台東区千束4丁目付近です。当時と町割りはさほど変わっておらず、かつて江戸吉原の大門があった場所へ向かう道は、今も曲がりくねっています。あえて大きな道から江戸吉原が見えないようにつくられたそうです。

吉原大門跡
住所:東京都台東区千束4-15 仲之町通り

才色兼備な太夫が誕生した、日本一古い遊郭「京都島原」

京都市・島原大門
©️Glen Berlin / Shutterstock.com

1589年に豊臣秀吉の許可を得て二条柳馬場に開設されたものの、京の発展に伴い、六条三筋町に移転。さらに1641年に現在の場所(当時の朱雀野)に移された「京都島原」は、その急な移転騒動が「島原の乱」に似ていたことから「島原」と称されるようになったそうです。

「京都島原」には、「揚屋(あげや)」(料理屋・宴会場)と「置屋(おきや)」があり、揚屋は太夫(たゆう)や芸妓などを抱えず、置屋から呼んで宴会を行っていたのが特徴です。新選組の隊士たちも通っていたとか。

なお、太夫とは遊女の最高位を示す階級名です。京都島原で使い始められたといわれています。太夫は才色兼備で、芸事や文学、茶道など幅広い分野に高い教養があったそうです。

そんな日本で一番古い遊郭とされる「京都島原」には、唯一、現存して営業を続ける置屋・お茶屋「輪違屋(わちがいや)」があります。

この建物は一般の町屋とは異なり、間取りが複雑で、1階南半分は居室、1階北半分と2階は客室からなり、2階には太夫道中(太夫が従者を連れて練り歩くこと)に使われる、傘を貼り込んだ襖がある「傘の間」、本物の紅葉で型をつけて彩色され、壁全面に紅葉があしらわれた「紅葉の間」があります。

さらに、揚屋であった角屋(すみや)の建物は、1952年に唯一の揚屋建築の遺構として、国の重要文化財に指定されています。

「京都島原」は遊宴だけでなく、詩歌や連俳(れんぱい)などの文芸が盛んで、特に俳諧(はいかい)は島原俳壇が形成されるほどだったそうです。

そんな京都唯一の幕府公認の遊郭だった「京都島原」の大門は今も残っており、京都市指定の建造物になっています。

京都市下京区を訪れる機会があったら、老舗店やリノベーションショップが並ぶ嶋原商店街に立ち寄り、遊郭の名残を感じながら町歩きを楽しみたいですね。

島原大門
住所:京都府京都市下京区西新屋敷上之町

歴史上最も有名な夕霧太夫がいた天下一の花街「大坂新町」

花魁のイメージ
※画像はイメージです

「大坂新町」は1585年、豊臣秀吉が散在していた遊女屋を集めたのがはじまりといわれています。1596年に伏見呉服(ふしみごふく)町から道頓堀へ移転。1620年前後に現在の大阪市西区新町1丁目付近に再び移転して定着しました。「大坂新町」は約350年にわたり天下一の花街だったそうです。

また、「大坂新町」の揚屋は、宴会用に大小の座敷があるほか、立派な庭を有しており、江戸吉原や京都島原よりも豪華だったといわれています。そのため、揚屋遊びでは全国一、評判がよかったそうです。

歴史上最も有名な太夫として名を馳せた「夕霧太夫」も、「大坂新町」にいました。夕霧は京都東山に生まれ、京都島原の扇屋に抱えられていたものの、扇屋の引っ越しに伴い、「大坂新町」に来たそうです。

このとき夕霧は19歳で、多くの男性を魅了し、やがて江戸吉原の高尾、京都島原の吉野に並ぶ、三大名妓といわれるようになりました。 しかし、大坂へ来て6年後に、病に倒れて25歳でその短い生涯を終えました。

現在、残念ながら「大坂新町」の名残はほとんど残っていません。しかし、人々が遊里の夜桜を楽しんだとされる場所には「新町九軒桜堤跡の碑」があります。なお、夜桜見物は昭和初期まで続いたそうです。

大阪市西区新町1丁目〜2丁目を歩くと、どことなく風情が感じられます。難波からもそれほど離れていないので、大阪を訪れることがあったら、ぜひ散策してみてくださいね。

新町九軒桜堤の跡
住所:大阪府大阪市西区新町1-15 新町北公園

[参考]
国立国会図書館|新吉原 (しんよしわら)
大吉原展
京都をつなぐ無形文化遺産
京都観光オフィシャルサイト|京都観光Navi
大阪市立図書館|天下一の花街・大坂新町を歩く(PDF)

[All photos by Shutterstock.com]

あやみ

Ayami ライター
フリーライター。劇団員、OL、WEB編集ライターを経て、フリーランスになる。辛い食べ物、東南アジアが大好き。旅するように生きるのが人生の目標。


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