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江戸時代、外国商人が暮らした洋館
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
16世紀後半から海外交易の重要拠点となった長崎港。ヨーロッパや中国から多くの人々が渡来し、異国文化や産業が長崎港から流れ込み、長崎は異国情緒あふれる港町として発展しました。
江戸時代には長崎港を見下ろす高台の東山手や南山手地区に外国人居留地がつくられ、明治時代にかけて、外国からやってきた商人などが移り住みました。現在も、この辺りには石畳の坂道、木造や石造、レンガ造の洋風建築の洋館が多く見られ、異国情緒あふれる街並みが広がります。
そんな長崎の街に建つ「グラバー邸」は、現存する日本最古の木造洋風建築。かつて英国スコットランド出身の貿易商、トーマス・ブレーク・グラバーとその家族が暮らしたバンガロー風様式の木造平屋建で、1961年(昭和36年)に国の重要文化財に指定されました。
幕末の陰の立役者、若き実業家・グラバー
江戸時代、海外交易の窓口として開かれた長崎には、貿易商人や船員、炭鉱や造船、建築、土木などの技術者、キリスト教の宣教師などが訪れ、ビジネスチャンスを求めて来日した外国人も少なくありませんでした。トーマス・ブレーク・グラバーもその一人。
グラバーが日本にやって来たのはまだ21歳の頃。「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店として「グラバー商会」を設立し、茶や生糸、武器・艦船などの貿易で手腕を発揮しました。その後、佐賀藩との共同事業による炭鉱開発とその経営や、外国から機械を導入して薩摩藩とともに修船場を建設したりと、産業の発展にも大きく貢献します。
また、幕末には日本の若きリーダーの育成にも尽力し、伊藤博文や井上馨、五代友厚など、数多くの若者の海外留学を斡旋。激動の時代において、日本近代化のための陰の立役者としても活躍しました。
異国の地・日本で、若き実業家から、押しも押されもせぬ経営者として成長したグラバー。グラバー邸は、そんなグラバーが来日4年目にして、わずか24歳の頃に建てた邸宅です。
グラバー邸で日本人妻・ツルと温かな家庭を築いたグラバーは、1911年(明治44年)に73歳で亡くなるまで生涯を日本で暮らしました。
その後、グラバー邸は息子の倉場富三郎とその妻ワカに受け継がれていましたが、1939年(昭和14年)に三菱重工業株式会社長崎造船所(当時)へ売却。
第二次世界大戦の最中にワカが亡くなり、終戦の11日後に倉場富三郎が自死するという悲劇にも見舞われました。そして1957年(昭和32年)、グラバー邸を保有していた三菱が、長崎造船所開設100周年記念事業の一環として長崎市へ邸宅を寄贈。
翌年からグラバー邸は一般公開されるようになり、1974年(昭和49年)には長崎の外国居留地に建てられた洋館を集めた「グラバー園」が開園。
2015年(平成27年)には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、岩手県から鹿児島県の8県11市に所在する23資産の1つにグラバー邸が数えられ、世界遺産に登録されました。
グラバー邸で坂本龍馬と“新時代”の作戦会議が!?
現在、グラバー園の一角に佇むグラバー邸は、往時と変わらない姿で長崎港を静かに見下ろしています。
幕末期には坂本龍馬もグラバー邸を訪れ、世界を舞台に活躍するビジネスマンのグラバーから多大なる影響を受けたのだとか。グラバーは坂本龍馬が仲介役をした薩長同盟の成立を支援。また、龍馬の貿易結社「亀山社中」の後ろ盾となって倒幕運動にも積極的に協力しました。
龍馬はブーツを愛用したことで知られていますが、実はこれはグラバーから調達したものといわれています。
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
長崎市内の亀山社中門前には、実際に足を入れられる「龍馬のぶーつ」像があり、龍馬になった気分で長崎の街を一望できると人気の観光スポットです。そのブーツがかつてグラバーの手から龍馬に渡されたものだと想像すると、何だか歴史の一場面を垣間見たような気がしますね。
外国貿易商人・グラバーと、幕末維新の志士・坂本龍馬の出会いの舞台となったグラバー邸。グラバー園と合わせて亀山社中や龍馬像などの観光スポットを巡ってみれば、幕末に新しい日本の礎を築こうと奔走した2人の熱い思いをより身近に感じられそうです。
住所:長崎県長崎市南山手町8-1
電話番号:095-822-8223
開園時間:8:00~18:00
入園料:大人620円、高校生310円、小・中学生180円
公式サイト:http://www.glover-garden.jp/