墳丘の長さ190m、二重の壕が廻っている大きな前方後円墳です。築造時期は6世紀前半です。織田信長が1568年の摂津侵攻の際にこの古墳に城砦を築き、墳丘を削り、壕を埋めたのではと思われていました。しかし実は、1596年の伏見大地震によって墳丘が崩壊したということが発掘調査でわかりました。地震による地滑りだけでなく、鎌倉時代の盗掘などにより埋葬施設も失われています。
大きな埴輪祭祀場があるのも、今城塚古墳の特徴です。人型、家型などの埴輪が130点以上も並べられていました。高さが170mもある日本最大の家型埴輪も発掘されています。この埴輪は、1キロほど離れた新池埴輪窯というところで焼かれたものです。新池埴輪窯は今、「はにわ工場公園」となっています。
今城塚古墳は、考古学的には6世紀前半に没した継体天皇の墓であると考えられていますが、宮内庁は今城塚古墳から1.3キロ離れた大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定しています。こちらの古墳は5世紀中ごろに築造されたと考えられており、継体天皇の没年を考えると、それよりも古いものです。
天皇陵墓についてですが、宮内庁が治定している埋葬者が本当にその埋葬者であるかは不明であることが多いです。天皇は現在、初代神武天皇から徳仁(令和の今上天皇)まで、126代といわれていますが、そもそもどこからの天皇が実在されたかについては、さまざまな説があります。日本の歴史は『古事記』や『日本書紀』に記されていますが、それらの書物が書かれたのは6世紀であり、それ以前の記述は不正確な伝説といわれています。この今城塚古墳の埋葬者とされる継体天皇は、6世紀の在位で現在、確実に実存が確認できる最初の天皇です。
しかし、宮内庁が治定している天皇陵は、継体天皇以前の初代神武天皇から全ての天皇の陵があります。これは伝承や伝説によって治定されているものです。天皇陵の探索および治定は、ほとんどが江戸時代末期に行われたものです。
天皇陵は考古学的な遺跡であると同時に、治定された以降は現在に至るまで祭祀の対象であるために、今現在も発掘調査は宮内庁の許可がなければ行うことはできません。
古墳と天皇陵について考えると、遺跡なのか、現役の祭祀の場所なのか、曖昧なところがあり、それが自分の国である「日本」のアイデンティティや価値観の根幹に関わっていることに気が付くことがあります。自分の国のことなのに、知らないことだらけだということを再認識するのも、古墳巡りの面白さだと思っています。
住所:大阪府高槻市郡家新町
[All Photos by Mizutani salucoro]