「霧社事件」で戦ったセデック族の戦士の像
日本が統治していた台湾。かつてこの島には敵の首を刎ねる首狩族がいました。現在の彼らはどんな暮らしをしているのでしょうか。村に行ってみましょう。
セデック族の概要
現在台湾には16の少数民族が認定されていますが、そのうち実に14の民族に首狩(現地での呼称は「出草」)の風習がありました。
なかでもセデック(賽德克)族は、日本統治時代に「霧社事件(1930年)」で武装蜂起する一方、太平洋戦争中には「高砂義勇隊」が編成され日本軍の一員として戦うなど、特異な歴史を歩んだ人々です。
そんなこともあってか、台湾の首狩族というと、セデック族の名前が真っ先に挙がることが多いようです。
セデック族の刺青の説明書き。平静部落の小学校にて。
日本統治時代の写真。余生記念館にて。
かつては敵の首を狩り、成人すると顔に入れ墨を彫っていたセデック族の人々。現在はどのように暮らしているのでしょうか? 三つの地区を紹介します。
盧山温泉・清境地区(南投縣仁愛郷精英村)
霧社事件のリーダーで「マへボ社」の頭目だったモーナ・ルダオ(莫那魯道)(1880〜1930年)の暮らしていた土地です。標高は1200〜1300メートルくらい。
セデック族の土地であることを知らせる頭像
マへボ社の部落であることを示す石碑
急峻なあぜ道。下方に見えるのが盧山の温泉街です。
セデック族の若者たち。山奥に住んでいるとは思えないくらいイケてませんか?
霧社事件の古戦場跡は草ぼうぼうで、ぼろぼろになったモーナ・ルダオ像がありました。
平靜部落・高峰地区(南投縣仁愛郷都達村)
温泉のある廬山から7キロ南に移動すると、平靜部落。海拔1200メートルに位置しています。平靜部落には四つの社(集落)がありました。
そのうちのひとつトゥダ群の総頭目だったタイモ・ワリスと同士18名を弔った墓石が、平靜國民小學の敷地内にあります。タイモ・ワリスは「霧社事件」の際、日本側に味方したグループのリーダーでした。
まるで秘境のような平静部落。
山奥の学校とは思えないほどりっぽな校舎。
校内はセデック族の文化を伝える写真や掲示で溢れかえっています。
首斬りに使った蛮刀の説明書き
人懐こくて元気な子供たち。
タイモ・ワリスらの墓石。工事中でどけられていました。裏側には「昭和十七年十一月」の文字が。
帽子を被った老人は日本語をすこし話すことが出来ました。
清流部落(日本名:川中島)(南投縣仁愛郷互助村)
「霧社事件」で生き残ったセデックの人々が、強制移住させられた土地です。もともとセデック族は山岳民族で狩りなどをして暮らしていました。しかし清流部落では米作りを強制され、現在に至ります。
清流部落全景(余生記念館提供)
まるで日本の田舎のようです。
これが清流米です。
部落の奥まった一角に「余生記念館」という名称の霧社事件の博物館があります。
台湾の田舎にはインドネシアからの花嫁(中央)が大勢嫁いでいます。台湾の先住民は東南アジア諸島の人々と同じ祖先を持つと言われているそうですが、確かに顔が似ています。
日本からの独立後、欧米から宣教師があいついで来訪。ものすごい勢いでキリスト教を広めました。
その結果、先住民の大部分はキリスト教(カトリックと長老派)を信仰しています。
先祖の墓の前に立つ老女。キリスト教のお墓です。
マリア様を祀った池に鯉が・・・。なんともアジアらしい光景。
「娘が九州で暮らしている」と語っていたセデック族の老夫婦と息子。
セデック族の暮らしにバイクは欠かせません。
霧社事件が起きた昭和初期の頃、彼らはまだ顔に刺青をしていたそうです。
現在は完全に文明化されていますが、あちこちでみかける壁画や資料館の展示からは、彼らのプライドをうかがうことが出来ます。
[Photos by DAMBALA Tell-Kaz]