贅を尽くした広大な庭園 三渓園
横浜市の本牧。ハイカラな山手と港の間に、広さ17万5,000平方メートルの広大な庭園・三溪園があるのをご存知でしょうか。もともとは1906年(明治39年)、横浜で絹や生糸の貿易を扱う実業家・原三溪(はら・さんけい)が、その財力で京都や鎌倉から歴史的な建物や樹木を集めて作り上げた庭園です。三溪は茶人でもあり、美術や建築などにも造詣が深い人物でした。
三溪園へのアクセスですが、横浜駅から三溪園正門までバスで30分ちょっとかかります。料金は220円。ちなみに桜木町駅や元町・中華街駅、また根岸駅からもバス便があります。
正門をくぐると、目の前に大きな池が広がります。私設の庭園として当初一般公開は池の周辺(外苑)だけでしたが、戦後横浜市に譲渡・寄贈されたのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、2006年には国の名勝に指定されました。
上の写真は園内MAP。大池の周辺は外苑と呼ばれ、古くから市民に開放されてきた地区で、ウメ・サクラ・ハナショウブ・ハスなど、四季折々の花を楽しめます。そして周囲の丘陵地に樹木に隠れるように古建築が配置されています。そのなかに内苑と呼ばれる三溪のプライベート空間がありました。ちなみに国指定の重要文化財10棟、横浜市指定有形文化財3棟といいますから、たいしたものです。
外苑での注目は、園内でもっとも古い時代、室町時代の康正3年(1457年)に建てられた三重塔です。大正3年(1914年)に、京都・木津川にある燈明寺から園内の小高い丘に移築され、遠くからでも塔の上部を望むことができます。重要文化財に指定されています。
茅葺屋根の土間と、とち葺き屋根の小部屋からなる、草庵風の建物で「横笛庵」。かつて室内に安置されていた“横笛の像”にちなみます。“横笛”とは平安時代末、平清盛の娘で高倉天皇の中宮であった建礼門院に仕えた女性で、平重盛の従者・斎藤時頼との悲恋の話が平家物語などで知られているそうです。
飛騨白川郷、現在の高山市荘川町にあった旧矢箆原家住宅(きゅう・やのはらけじゅうたく)。江戸時代後期の入母屋合掌造りの民家で、御母衣ダムの水没地区にあったため、昭和35年(1960年)に移築されました。内部も見学することができます。
内苑の古建築と散歩道・特別公開
さて内苑です。もともと内苑は原三溪の住まいがあった場所で、春の新緑と秋の紅葉のこの時期に建物の間近まで行って、開け放たれた窓や板戸から室内を鑑賞することができます。今回は12月6日(日)までです。
内苑の竹林のなかにあるのは、原三溪が自らの構想により大正6年(1917年)に建てた茶室「蓮華院」。もともとは春草廬が建つ場所にありましたが、太平洋戦争中に解体保存され、戦後、現在の位置に再建されました。土間の中央にある円柱と壁の格子は、宇治・平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。
内苑をさらに進むと、美しいイチョウの木と、そのかたわらにお堂がありました。重要文化財の旧天瑞寺寿覆堂です。天正19年(1591年)豊臣秀吉が、病気から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた、生前墓の寿塔を覆っていた建物といいます。
そのお堂を覆うような、みごとに黄色に色付いたイチョウです。いいえ、黄色というよりも、日差しに金色に輝いていますね。台風で被害を受けたイチョウはこの木ではありません。元気な様子です。
イチョウの落ち葉があたり一面に金色に輝く絨毯をひろげています。毎年この時期に、このイチョウたちはこんな美しい絨毯を広げていたのです。
しかし、その奥にある茶室・春草蘆は例年とは異なる風景でした。もちろん茶室は変わりありません。江戸時代の前期に京都の伏見城内に建てられた書院に付属した茶室で、織田信長の弟で茶人の織田有楽(おだ・うらく)が設計したといわれています。その後、宇治の三室戸寺に移築されていたものを、大正時代になって原三渓が移築したものです。
窓が9つもあることから、かつては“九窓亭”と呼ばれていました。昭和6年(1931年)に国宝に指定され、戦後になって改めて国の重要文化財に指定されました。
毎年、黄色く色付いたイチョウが絨毯を広げる中、ここでは茶会が開かれてきました。しかし、今年はイチョウの落ち葉が見あたらないのです。
いのちをつないだイチョウの古木
春草蘆の手前右側、写真の右端の木がイチョウなのです。樹齢は120年とも150年ともいわれる古木です。見違えてしまいました。先ほどの旧天瑞寺寿覆堂の脇にあったイチョウの木よりも大きな木でした。しかし、そのイチョウの幹が途中でなくなっています。この木が台風にやられたのです。周囲も鬱蒼としていた樹木がなくなっています。
近くにいたガイドと庭師の方にお話を伺うことができました。昨年の9月、台風15号の記録的な暴風雨によって周囲の樹木はなぎ倒され、このイチョウの木は枝も幹も無残に折れてしまったのだそうです。そのままにしておくと枯れてしまうので、すべて切ってしまったそうです。そうすれば、また新たな枝が伸び、葉が付くのだといいます。
思わずイチョウの根元を見てみました。根元はどっしりと地面に根付き、動じている様子はありません。本体自体は大丈夫のようですね。
そしてもういちど上を見上げると、若葉のような初々しい葉がついています。だから落葉していなかったのです。枯れたわけではありませんでした。
ガイドの方に伺ったところ、若い葉なのでまだまだ紅葉しないのだといいます。新たないのちの芽生え。いのちのつながり。イチョウのいのちが新しいいのちにつながった証拠です。庭師の方は、また来年からはこのイチョウも枝葉が伸び、紅葉してくれるでしょう、と話していました。
建物と自然が調和する日本の美
そうなんです。建物がどんなに素晴らしくても、それだけでは完成された存在にはならないのです。周囲の景観、たとえば日差しに映えるイチョウの紅葉の輝き。それらがあることで、古びた建物や風景の味わいが増して見えます。当たり前のことなんですが、改めて気づかされます。
この月華殿も、光の中で紅く輝くもみじと相まって美しく見えます。ちなみに、この月華殿も重要文化財で、徳川家康が慶長8年(1603年)に京都伏見城内に建てた諸大名の控えの間だったと伝えられています。
こちらも重要文化財の聴秋閣(ちょうしゅうかく)。その名前の通り、秋を聴き、味わうための建物ですね。徳川家光の上洛に際し、元和9年(1623年)に二条城内に建てられ、のちに家光の乳母であった春日局に与えられ、さらに孫の老中稲葉正則の江戸屋敷に移築されたといいます。大正11年(1922年)に三溪園へ移築され、三溪園は完成したとのことです。
注目されるのは奥の畳の間より一段低い入口部分だそうです。これは水辺から舟で直接上がり込むための空間で、舟遊びを意識したものであったことが想像されるといい、三溪園では小川の水が流れてくる場所に建てられました。
という具合に三溪園を見ていくと、建物は単独で存在するのではなく、周囲の環境、地形、そして樹木や花々とともに存在しているのがよくわかります。といいますか、その調和がなければ、その美しさも価値も半減してしまうような気がしてきます。そんな当然のことを改めて感じました。
ふたたび春草蘆に戻りました。三々五々観光客が訪ねてきます。いつかまた、かたわらのイチョウも、周囲の樹木も枝が伸び、春草蘆を覆うように葉が茂り、そうして光に輝く美しい落ち葉で金色の絨毯を作り出してくれるに違いありません。
住所:横浜市中区本牧三之谷58-1
電話:045-621-0634
HP:https://www.sankeien.or.jp/
アクセス:横浜駅東口2番バス乗り場《市バス8・148系統》約35分三溪園入口下車徒歩5分 《ぶらり三溪園BUS》(土・日曜日・祝日限定運行)約35分三溪園下車
[All Photos by Masato Abe]