日本初の近代的な洋風公園 日比谷公園
東京のど真ん中で、東京ドーム3個半16万平方メートルもの広さを誇る日比谷公園。開園したのは明治36年(1903年)。日本初の近代洋風公園でした。
江戸時代末期の古地図でみると、佐賀鍋島藩を中心に、播磨三草藩、下野吹上藩、陸奥盛岡藩などの大名屋敷が並んでいました。さらにさかのぼれば、江戸以前は「日比谷入り江」と呼ばれる干潟が広がっていた場所です。
明治に入ると日比谷練兵場として陸軍の訓練施設となり、1888年(明治21年)神宮外苑への移転とともに跡地を公園にする計画が持ち上がりました。
紆余曲折の後、のちに名だたる公園を手掛け「日本公園の父」と呼ばれた、東京帝大教授で林学者・造園家の本多静六博士(1866-1952)の考案で、日本的な景観を生かしつつ、洋風の庭園を造ることになったといいます。
日比谷公園 秋の園内散策
園内には花壇や広場だけでなく、テニスコートや飲食店など、多彩な施設や発見があります。ちょっと歩いてみましょう。
日比谷公園のシンボルともいえる噴水広場。周囲では子ども連れや休息をとるサラリーマンにOL、またカップルなどでいつもにぎわっています。中央にある大きな噴水は上中下段の三段構造だといい、吹き上げる高さは12mになります。しかも夜9時まで夜間照明付だそうです。
1929年の竣工以来、歴史を刻んできた日比谷公会堂。耐震化の大規模改修工事を行うために2016年から使用を休止しています。歴史の大舞台にも立った公会堂で、1960年、日本社会党の浅沼稲次郎暗殺事件はここでの立会演説会で起きました。
明治36年開園当初の水飲みが残されています。こんなハイカラな水飲みもあったのですね。ちなみに今は使えません。
さらに古い遺物も残されていました。園内に数カ所残された「石桝(いします)」。江戸時代、木の管を使って水をそれぞれの屋敷に流していましたが、管の分岐点となるのが石枡で、水位を上げて水の流れを変えるためのものでした。
東側の日比谷交差点に接するあたりは、かつて江戸城外郭の一部だった場所です。心字池を中心に日本庭園が造られ、背景に大きな石を積んだ石垣が残されています。石垣は池に沿って100mあまりでしょうか。本多博士らはかつての面影をとどめる設計にしたのです。
園内いたるところで紅葉狩り
雲形池は公園の中央に位置しています。黄色や赤く染まったカエデやイチョウが心に染み入るようです。春は桜も美しい場所です。
雲形池はベンチもあり、憩いの場所になっています。カップルも良く見かけ、テレビや雑誌の撮影にもしばしば使われますね。
雲形池が日本庭園でしたら、イチョウ並木は西洋の公園の趣です。
樹齢400年の「首賭けイチョウ」とは
そして公園のほぼ中央部にある松本楼。明治36年創業の老舗洋食レストランです。まったく気にしていなかったのですが、たしかに松本楼の庭に大きなイチョウの木が立っていました。樹齢は400年以上といわれていますから、江戸に幕府が誕生したころに生まれた木なのです。
日比谷公園が誕生する2年前、明治34年(1901年)のことです。当時、公園整備とともに日比谷通りの拡張工事が行われていました。もともとこのイチョウの木は日比谷交差点のあたり、江戸時代には鍋島藩邸あるいはその周辺にあったようです。その工事に伴い、このイチョウの木は切り倒される計画だったといいます。
ところが、日比谷公園を設計していた東京帝大教授の本多静六博士がこの木を見て、伐採の中止を願い出ます。そして東京市会議長の星亨に面会を申し込み、公園内への植え替えを申し出ました。しかし星は許しません。
本多博士はハンコを押して保証すると請け負いますが、それでも星に拒否され、「自分の首を賭ける」とまで言い出したのです。そこでようやく星は博士の意見を受け入れました。
だから「首賭けイチョウ」というのだそうです。ちなみに星亨は元衆議院議員で、その強引な政治手法と汚職疑惑から「オシトオル」などと揶揄され、この件とは無関係ですが、直後に暗殺されることになります。
いまでは最初からここにあったように見えますが、本多博士の指導の下、請負業者が日比谷交差点からここまでレールを敷き、その間450mを25日間かけて移動させ、植え替えは成功しました。
松本楼とともに育った「首賭けイチョウ」
明治36年(1901年)、日比谷公園の開園と同時にオープンした日比谷松本楼。ハイカラ好きなモボやモガの間で評判となり「松本楼でカレーを食べコーヒーを飲む」ことが流行したそうです。
この日、幸いにも松本楼のテラス席に座ることができ、イチョウの前でランチをいただきました。松本楼に来て、このイチョウの木を意識するのは初めてのことです。いただいたのはカレーではなくオムレツライスでした。
本多博士の思いとしては、その当時でも樹齢200年を超えていたはずですから、美しいイチョウを伐採するに忍びない、新しい公園で生かしたいという気持ちだったのでしょうね。
たぶん、松本楼のテラスに合わせるような配置で植栽したのでしょう。まばゆい日差しをさえぎり心地よい日陰を作ってくれるイチョウの木を見上げながら、そんな風に思いを馳せました。
このイチョウの木がふたたび脚光を浴びたのは1971年(昭和46年)11月19日。過激派が松本楼に火炎瓶を投げて全焼、この首かけイチョウも黒焦げになりました。長寿のイチョウも命尽きたかと思われましたが、翌年の春にはふたたび新芽を伸ばし、人々を驚かせたといいます。
ちなみに、この事件で焼失した松本楼は2年後の9月25日に再オープン。これを機に、感謝の気持ちを表す意味で毎年9月25日に「10円カレー」として10円でビーフカレーを提供し、売上や寄付金は交通遺児育英会や日本ユニセフ協会など寄付や義援金に宛てられているそうです。
もうひとつ余談ですが、本多静六博士は「日本公園の父」としてその名前を刻むだけではなかったのです。彼は苦学して東京帝大教授になり林業学や造園を極めましたが、それ以外に「月給4分の1天引き貯金」をモットーに、貯蓄と株式投資で巨万の富を築きました。しかも大学定年退官と同時に全財産を寄付しています。85歳の時に出版した「私の財産告白」はいまも名著として詠み継がれているのです。
考えてみれば、造園と株式投資は「長い目で考える。多様性を持たせる。分散させる」という意味で共通しています。博士はその理論の実践をしていたのかもしれません。
[All Photos by Masato Abe]