大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ゆかりの狩宿の下馬桜
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で注目される鎌倉幕府初代の征夷大将軍、源頼朝。その頼朝が建久4年(1193年)に富士山麓で狩りを行った際、この陣所で馬を降りたことから、「狩宿の下馬桜(かりやどのげばざくら)」と呼ばれています。別名もあり、馬(駒)を降りたことや桜の木に馬(駒)をつないだことから「駒止めの桜」ともいうのだそうです。
上の写真は、狩宿の下馬桜へと続く菜の花と桜の並木道。
丘陵地帯にある富士宮市狩宿地区は、公共交通ではちょっと不便です。車なら新東名高速道路の新富士IC(新東名)から富士宮道路の上井出ICを経由して約30分。路線バスではJR富士宮駅から猪之頭行きに約25分乗車して「狩宿下馬桜入口」で下車、そこから10分ほど歩くことになります。
近くの広場にはテントが張られて、お菓子やお酒、記念品などを販売するお土産物屋さんが並んでいました。
樹齢は800年以上とも1000年とも
樹齢800年以上とも1000年ともいわれる狩宿の下馬桜。源頼朝が狩りをしたのは建久4年(1193年)ですから、その当時から大木だったとすれば、樹齢850年は優に超えているはずです。古くからの言い伝えというのは、けっこう本当だったりするように思えます。
ちなみに根尾の淡墨桜(岐阜県)、山高神代桜(山梨県)、三春の滝桜(福島県)が「日本三大桜」と呼ばれていますが、狩宿の下馬桜はそれらに次ぐ「日本五大桜」に数え挙げられています。大きさ、満開の花の咲くさま、花の美しさ、そして言い伝えや伝説もまた桜の価値を高めるのではないでしょうか。
以前は目通り(人の目線の高さで目測した幹回り)8.5m、枝の張り出しは東西22m、南北16mもあり、日本最大のヤマザクラといわれました。しかし近年台風などの自然災害で枝が損傷して、小さくなってしまったといいます。
桜の近くの掲示板に古写真がありました。大正9年(1920年)に作られた絵葉書だそうです。たしかに枝ぶりは大正時代のほうが、勢いがあるように見えます。気のせいでしょうか、それぞれの枝が以前のほうが太いように見えるのです。
実はいまでは「ひこばえ」が成長して株立ち状の樹形になっているそうです。「ひこばえ」とは、太い幹に対して、孫(ひこ)に見立てて「ひこばえ(孫生え)」と呼ばれるもので、樹木の切り株や根元から生えてくる若い芽のことをいいます。1本の大きな幹ではなく、複数の幹が根元から成長している形だといいます。
この狩宿の下馬桜。学名は「赤芽白花山桜(あかめしろばなやまざくら)」。咲き始めは淡いピンク色をしていますが、徐々に白くなっていくのだそうです。柵があってアップではわかりませんが、この時はまだうっすらとピンク色がかっているように見えました。
桜の背後には立派な高麗門が建っていました。「井出館」と呼ばれる建築物で、井出家とは当時この一帯を支配する土豪で、建久4年(1193年)に源頼朝が巻狩を行った時の宿舎となりました。当時の建物は江戸時代中期に火災で焼失しましたが、現存する建物も江戸中期の貴重な建造物といいます。
この頼朝の富士の巻き狩りは歴史的に相当大きなものだったらしく、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にその様子が描かれています。建久3年(1192年)に征夷大将軍となった源頼朝は、翌年の春、東国武士の力を天下に見せつけようと富士山麓で狩りを催しました。なんと5月8日から6月7日にかけて1カ月間も行われたそうで、大規模な軍事演習だったと考えられています。
「狩宿の下馬桜」にゆかりのある人物がもう一人います。こちらもNHK大河ドラマ『青天を衝け』で注目された江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜です。この桜を愛で「あはれその 駒のみならず 見るひとの 心をつなぐ 山桜かな」と詠んだそうです。大政奉還の後に静岡に移り住んでいました。
新富士ICに戻る途中、富士宮市内に富士山本宮浅間大社があります。この神社の境内の桜も見事というので、訪ねてみることにしました。
もうひとつの名所 富士山本宮浅間大社へ
富士山本宮浅間大社は桜とおおいに因縁深い神社なのです。というのも、浅間大社のご祭神は「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」。「木花之佐久夜(このはなさくや)」という名前から転じて「花が咲く」で、桜が御神木とされ、境内では染井吉野やしだれ桜など、500本の桜が花を咲かせます。
富士山本宮浅間大社は富士山をご神体とする、全国1,300あまりの浅間神社の総本宮で、駿河国(現在の静岡県東部)でもっとも社格が高いとされる「一宮」。
2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産として世界文化遺産に登録されました。JR身延線富士宮駅からだと徒歩10分ほどの場所にあります。
境内の入り口には源頼朝の銅像がありました。毎年5月5日に神事の「流鏑馬」が伝えられているそうで、これは頼朝が富士裾野の巻狩りを催した際に奉納したことを起源とし、頼朝による社領の寄進があったと伝えられるためです。
この日は結婚式の前撮りでしょうか、桜が咲く下で和装の男女が写真を撮っていました。華やかな風景ですね。
ちなみに木花之佐久夜毘売命は、大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘で、大変美しく、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻となりました。こうした故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神として信仰されてきました。しかし妊娠に際して、夫の瓊々杵尊に貞節を疑われたことで、証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち3人の子を出産します。
それゆえに木花之佐久夜毘売命は別名を「浅間大神(あさまのおおかみ)」といい、浅間大社という名前もそこから生まれたのでしょう。激しい噴火で人々から懼れられた富士山と産屋に火を放ったという気丈な木花之佐久夜毘売命の伝説が結びついているのだと思われます。
たいへん美しい富士山ですが、一度噴火をすれば恐ろしい存在となります。そして桜は美しくはかない存在。こうして富士山と桜と、ご祭神の木花之佐久夜毘売命が結びついているのですね。
浅間大社と富士山の伏流水
桜とともに浅間大社の見ものがもうひとつあります。それが美しい富士山の伏流水。水が豊富に湧き出しているのです。
そもそもの富士本宮浅間大社は現在地よりもっと北、富士山の近くにあったそうです。紀元前27年頃といいますから2000年以上も昔のこと。
その後、大同元年(806年)、坂上田村麻呂が平城天皇の勅命を奉じ、現在の地に壮大な社殿を造営し、山から遷座します。富士山の神水の湧くこの地がふさわしかったためではないかと推察されています。
東脇門を出たところに広がる「湧玉池(わくたまいけ」。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り抜けて湧出するもので、特別天然記念物に指定されています。
清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社があり、古来富士山に登る人びとは、この霊水で禊ぎをする習わしがあったそうです。
こちらはもう一つの池「玉藻池」。富士山は年間およそ22億トンもの降水量があるといいます。途方もない数字で、どれほどなのかは想像を絶しますね。その雨や雪が数十年から数百年かけて湧き出しているのです。
この透き通った水を見ていると心が和みます。水はまるで心を映し出すように透き通っているのです。
さて、花より団子というわけではありませんが、富士宮といえば富士宮焼きそばが知られていますね。ぜひ現地でいただきたいと探したところ、境内近くにお店がありました。しっかりと出汁の利いたもっちりした麵の焼きそばは、なかなかの味でした。
[All Photos by Masato Abe]