広島平和記念公園を久しぶりに訪問
広島平和記念公園を訪ねるのは、筆者にとっては久しぶり、たしか3回目です。今回初めて知ったのですが、広島市では爆心地からおよそ2km以内で被爆した約160本の樹木を「被爆樹」として登録しているとのこと。その1本、アオギリの木が同公園内にあるというのです。
この日、小雨のなか、広島市の中心部にある紙屋町の広島バスセンターから歩いて平和記念公園に向かいました。数分で公園北に位置する原爆ドームが見えてきます。リアルですが非現実的な光景なのです。夢なのか現実なのか、訪ねるたびに不思議な感覚をおぼえます。
原爆の子の像の周囲には、コロナ禍が落ち着いていた時期だったので、たくさんの修学旅行生たちが集まっていました。原爆で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける目的で建てられた像です。
ちなみに、この公園は「広島平和記念都市建設法」という国の法律によって作られました。この公園の造りがずっと気になっていました。それで調べてみると……
戦後コンペによって造られた広島平和記念公園
「世界に向けて人類の平和を願い訴える」こと、そして「過去の過ちを繰り返さない」ことを目的に、1949年、「広島市平和記念公園及び記念館競技設計コンペティション」が行われ、約140件の応募案の中から1等に建築家・丹下健三以下3名(浅田孝・大谷幸夫・木村徳國)の案が選ばれたといいます。
その案とは、市の中央を東西に走る予定の100m道路と垂直に交わる形で、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを一本の線で結ぶデザインだったのです。それは、日本古来の寺社仏閣の建築様式、つまり建物の配置がつくりだす「秩序」だったようです。実際に歩くと不思議な安心感があるのです。
園内を歩いていると、「材木町跡」という石碑がありました。平和記念公園は戦前からの公園と思われがちですが、実は戦後新たに作られた公園です。
幕末から明治・大正にかけて、ここは繁華街だったといいます。この材木町は1945年8月6日の原爆投下で壊滅し、その時この場にいた町民は全員亡くなられたのです。
住所:広島県広島市中区中島町
電話:082-504-2396
公式サイト:https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/hiroshima-park/7480.html
被爆したアオギリに会う
上の写真、アオギリの木の向こうに平和記念資料館が見えます。アオギリの木はその資料館の出口前にありました。以前、資料館を訪ねたときは、まったく気付かず素通りしていたことになります。
平和記念資料館を出ると、ちょうどアオギリの木がこんなふうに見えるはず。7月の陽気で生き生きと緑が茂っています。この木だったのですね。
近寄ると、中央にアオギリの説明が書かれていました。それによれば、「市内東白島町の中国郵政局(旧広島逓信局)の中庭(爆心地から約1,300m)で被爆し、爆心地側の幹半分が熱線と爆風によりえぐられましたが、その傷跡を包むようにして成長を続けています。1973(昭和48)年5月に現在地に移植されました」とのことです。
そして、幹にも説明板が付けられていました。「爆心地から1,300m離れた場所で被爆しましたが、翌年には新芽が生え、人々を勇気づけたといわれています」とあります。
すべてが焼き尽くされた被爆地の中で、75年前、新芽やつぼみ、そして花々がどれだけ人びとの心を勇気づけたか……。大きな励ましだったことでしょうね。広島市の被爆樹木については、広島市の公式サイトに一覧があります。
公式サイト:https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/48/9262.html
詩人で作家の原民喜が描いた広島
詩人・作家の原民喜(1905~1951)をご存じでしょうか? 広島市で生まれ育ち、被爆した体験をもとに小説『夏の花』や詩『原爆小景』などを残しています。原爆の惨状を描いた記録は胸に迫ります。
彼の詩集『原爆小景』のひとつ『焼ケタ樹木ハ』と名付けられた詩を思い出しました。あまりにもリアルでシンボリックな被爆直後の樹木を描いています。岩波文庫から出版されていますので、ぜひお読みになってください。
この詩をはじめ、『原爆小景』ではいくつかの詩が漢字とひらがなではなく、漢字とカタカナで記されています。なぜカタカナだったのか。原民喜は『草の花』の中で、原爆の惨状を描くのは、「片仮名で描きなぐるほうが相応しい」と書いていました。冷静なひらがなではなく、混沌としたイメージが拡がるカタカナのほうが適切だと考えたようです。
そして小説『夏の花』も被爆直後の広島が克明に描かれた名作。原民喜は爆心地からわずか1.2kmの場所にあった生家で被爆しました。爆発の直前から被爆、その後彼が見たもの、行動したこと、そして想像力によって喚起されたものが詳細に記録されています。毎年、この季節になると原爆とともに『夏の花』が思い起こされるのです。
美しい『草の花』というタイトル、最初は『原子爆弾』だったそうです。1945年秋に執筆されました。しかし当時、進駐軍の検閲で許可されないと予測されたため、タイトルを変え、一部の表現を柔らかくして(現在では当初の文章に戻っています)、1947年6月『三田文学』で発表されました。こんな苦労もあったのですね。
さて、アオギリに戻りましょう。アオギリは中国南部から東南アジアが原産で、日本では沖縄、奄美大島に自然分布しているそうです。奈良時代に日本にやってきて、本州、四国、九州に分布したとのことで、いまでは街路樹や庭木として各地に植樹されているといいます。
上の写真がアオギリの花の部分。実はアオギリの花がどんな風に開花するのかよくわからなかったのですが、どうやら咲き始めているようです。もう少しすれば、中心部が赤く、花開くはず。
広島市の160本の被爆樹木
原子爆弾調査報告集(1953年)によれば、爆心地から2km以内は建物の全焼区域でもあり、多くの樹木が焼き尽くされ、50%ほどの幹が折れたといいます。そうした中、被爆の惨禍を生き抜いた樹木や焼け焦げた樹木の株から再び芽吹いた被爆樹木が、現在約160本残っているらしいのです。
地面から真っすぐに、すっくと立っている姿が凛々しく、いのちの逞しさ、そして確かな快復力を感じさせてくれるのです。
このアオギリ、爆心地から約1,300mにあった中国郵政局の建て替えに伴い、1973年(昭和48年)5月、この場所へ移植されました。当初は枯死するのではないかと心配されたそうですが、その後も毎年、種子をつけ、これらの種子は国内外へ贈られ、多くの2世が育っていることのこと。
英語では「チャイニーズ・パラソルツリー」というらしく、確かに上のほうを見ると大きな傘のように雨をさえぎってくれます。雨宿りにはぴったりかもしれません。
ひとつひとつのいのちの尊さ
実はアオギリの木の近くにもうひとつ、ハマユウ(インドハマユウ)の花が咲いていました。こちらは爆心地から2,200m離れた旧広島女子商業高校(当時は、陸軍船舶砲兵団衛生教育隊が駐屯)で被爆したもので、被爆して1カ月後、焼け焦げた球根から葉が出ているのを見つけた元兵士が、たぶん故郷の神奈川県に持ち帰り育てていたといいます。それが1969年に平和公園に移植されたのです。
清楚な花ですね。正式には「アフリカハマユウ」というらしいのですが、6月から7月下旬の梅雨の季節に、ユリにも似たラッパ状の白やピンクの花を咲かせます。
花や樹木の生命力を痛感します。ここにもいのちがあったのだという発見。そして76年もいのちをつないできたこと、その事実に驚きます。気づかずにいれば、なんとも思わないような植物の来歴ですが、気にするようになって、一つひとつの花々の来歴を知ると、いのちの大切さ、そして、そのいのちをつなぐことの尊さを痛感します。
アオギリ、そしてインドハマユウと向き合ったあと、広島平和記念資料館を見学しました。いうまでもなく、戦争が引き起こす惨禍がいかにむごいものであるか、そして平和であることが、いかにかけがえのないものであるか、あらためて痛感します。
ウクライナに平穏な日々が戻るように
2022年2月に始まった、ロシアによるウクライナへの侵攻は国際社会に衝撃を与えています。
ウクライナではこれまで平穏に暮らしてきた多くの民間人が次々に犠牲になるばかりでなく、戦闘はさらに長期化する様相で、核使用の懸念も続いています。
ひとつひとつのいのちが大切に守られること、そして少しでも早く平穏な暮らしを取り戻せるよう願わずにはいられません。
[All Photos by Masato Abe]